♯31
再び千鶴と「G線上のアリア」を合わせた凛々子。未乃梨との練習で何かをつかんだ千鶴に、凛々子は思うところが出てきたようで……?
その日の放課後の千鶴は、凛々子からすると少なからず目を見張るものがあった。
千鶴は、自分から凛々子にアイデアを持ちかけてきた。
「『G線上のアリア』なんですけど、コントラバスのパート、ピッツィカートで弾いてみていいですか?」
「悪いアイデアではないし、むしろそういうアレンジも珍しくないわね。早速弾いてみましょうか」
凛々子はさして意外に思わず了承すると、調弦の済んだヴァイオリンを構えた。
本番では未乃梨のフルートに任せるパートを弾きながら、凛々子は千鶴が弾くコントラバスのピッツィカートに注視した。千鶴の右手は、明らかに本来の演奏者にあつらえたような挙動をしていた。
(弦をはじく位置がいつもより高い……ふむ、それに気付いた、ということね)
千鶴の右手が、ポジションを押さえる左手に近い位置で弦をはじいていた。軽く粒の立った、出しゃばらないピッツィカートの音が生まれて、千鶴の右腕全体が本人の身体の正面にくるような動きと相まって、ハープの低音が鳴っているような軽やかさが生まれていた。
(弓でもピッツィカートでも、弦を発振させる位置がブリッジから離れれば音質は軽くできる……そこに気付いたなら)
凛々子は、伸ばしの音にトリル(楽譜の音と音階一つ上の音とを何度も速く交代させて波型の音型を作る装飾音)を付けた。それを皮切りにテンポを少しずつ吊り上げて、祈るような雰囲気の旋律に踊るような躍動感を与えて表情を塗り替えていく。
千鶴は、全身を耳にでもしたかのように凛々子の演奏を聴いて、ついて行った。
(テンポが上がっていったり、楽譜に書いてない音を足したりするのは朝に未乃梨と合わせた時と同じ……でも、未乃梨とはメロディの組み立てがなんか違う……!)
未乃梨のフルートとは全く違う形で、凛々子は「G線上のアリア」の旋律を乗りこなしていた。
時折真っ直ぐに歌って自然に転がった音が楽譜に書かれた音符の隙間にはまっていく未乃梨のフルートと違って、凛々子のヴァイオリンは旋律のリズムを崩したり、何も動きのない長短の伸ばしの音でトリルのような波型の音を入れたりして、まるで勝手にメロディを書き換えるような弾き方を悪びれもせずに千鶴に聴かせている。
(『G線上のアリア』ってこんなことをやってもいい曲なのかな。……でも、全然変に聴こえないし……?)
凛々子と千鶴の合わせる「G線上のアリア」は、前回とも朝に未乃梨と合わせた時ともまるで違う、遊びに満ちた形で終止符を打った。
「ピッツィカート、良いわね。採用しましょう」
「あの、仙道先輩、『G線上のアリア』って、こんな風に好き放題しちゃっていいんですか?」
「いい質問ね」
凛々子はヴァイオリンを顎に挟んだまま頷いた。
「この曲が書かれた時代は、楽譜を叩き台にして演奏者がその場で音やリズムを変えたり足したりする解釈があり得た、ってことだけを今は知っておいて」
「ええ? 楽譜に書いてあることって勝手に変えちゃいけないんじゃ?」
「時代が変われば、楽譜に書かれたことをどう扱うかも、変わりうるのよ。その辺も含めて月曜日の合わせの練習は詰めて行くから、そのつもりでね」
凛々子は、明らかに面食らった様子の千鶴に、「ま、こういう勉強もこれからたくさんしていくことになるわね」と当たり前のように告げた。
その週の土曜日、凛々子の所属する星の宮ユースオーケストラの練習が、ディアナホールで行われた。練習には本番に賛助で出演する演奏者が幾人か参加しており、コンサートミストレスの席に座る凛々子の視界の左半分はかなり賑やかになっていた。
中でも、団員が不足しがちなヴィオラとコントラバスに一部の管楽器は、普段より明らかに人数も多ければ、普段見ない顔触れもそれなりに含まれていた。
凛々子はコントラバスの方に目をやった。団の所有ではない五弦のコントラバスを床に置いて伸びをする女性が、凛々子を微笑ましい気持ちにさせた。
その日の前半の練習が終わって、休憩に入ると凛々子はホールの自販機に飲み物を買いに足を向けた。そこに、先客があった。
「あ、舞衣子先生。お疲れ様です」
「おや、コンミス殿じゃないか。お疲れさん」
先客は紙コップのコーヒーを手にしたまま、凛々子に軽く気さくに会釈をした。
コーヒーを手にしている、凛々子の倍ほどの年齢のこの先客は、先ほど練習が終わると持参した五弦のコントラバスを床に置いて伸びをしていたのだった。
何度かオーケストラの本番で一緒に弾いた、軽くセミロングの髪をくくって生成りの長袖シャツにデニムのパンツ姿の女性には、凛々子は以前から親しみを感じていた。
「しっかし、星の宮ユースも良いオケなんだが、コンバス不足は如何ともし難いねぇ」
「天下の本条舞衣子先生が来て下さって、助かります。後半はシューベルトの『グレート』ですし」
礼を言う凛々子に、本条は小さく溜息をついた。
「私も中学からユースオケとかで弾いてるけどさ、昔からコンバスはアマでも大人に囲まれて弾いたりとか珍しくなかったもんねぇ」
「それなんですけど。舞衣子先生、最近うちの高校でコントラバスの子を教えてまして」
「へぇ? どんな子かな」
本条は、凛々子の話に紙コップを傾ける手を止めた。
「吹部の女の子なんですけど。見どころはあるかもしれませんよ? 背も高いですし」
「いくつぐらい? 一六〇ってとこ?」
「一八〇センチ近いんじゃないかしら。並の男の子よりずっと大きい子ですよ」
「私より十センチ以上高い女の子、ねえ。ふむ」
本条は紙コップのコーヒーを飲み干すと、何かを考え込んだ風で顎に手をやった。
(続く)




