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♯308

星の宮ユースオーケストラに千鶴を誘う凛々子と、自分の演奏にまだどこか自信が持てない千鶴。


一方、先に帰宅した未乃梨は、千鶴と凛々子が結び付きを強めているように思えて、疎外感から逃れられず……。

 自分をじっと見る凛々子(りりこ)の瞳から、千鶴(ちづる)は視線を外せなかった。

 夕闇が迫る時間になって暗くなっていく駅の周りが、ホームの照明を捕まえて光る凛々子の瞳を浮き立たせて、千鶴の視線まで捕らえてしまう。

「私が、オーケストラで……? そんな、コントラバスを始めてまだ半年も経ってないのに」

「本当に千鶴さんにそれが無理だと思っていたら、私は発表会に誘っていないわ。それどころか、『あさがお園』での演奏にも誘っていないわよ」

 真剣な面持ちのまま、凛々子は千鶴を見つめ続けた。その眼差しに、千鶴はますます凛々子の瞳から目を離せない。

「凛々子さん、どうしてそこまで――」

「単純なことよ。コントラバスを手にしたあなたを見た時に、最初に一度一緒に演奏してみたいと思ったの。次に、上達していくあなたを教えていくうちに、沢山の人にあなたと一緒に演奏してほしいと思ったわ。だから、オーケストラに誘ってみたくなったの。それだけではないわ」

 凛々子の穏やかなアルトの声が、微かに揺らいだ。

「私は、音楽のこと以外でも、あなたの側にいたいの。……未乃梨(みのり)さんとあなたの関係も知っているし、そのことの返事を急がせるつもりはないけれど、それが私の嘘のない気持ち全てよ」

 凛々子の手が、ベンチの隣に座る千鶴の長いフレアスカートの膝に触れた。そのまま、膝の上で握り拳を作っている千鶴の大きな手の上に、凛々子の手がそっと覆いかぶさっていく。その手は僅かに汗ばんで、しっとりと滑らかな温かい感触を千鶴の手の甲に伝えてくる。

 千鶴は、戸惑いながらもう片方の手で凛々子の手をおっかなびっくりと押さえて、程なく離してしまった。

「……まだ、何ともお返事できないです。私、部活のこともあるし」

「そう。ひとつ、面白いことを教えてあげる」

「面白いこと、って?」

本条(ほんじょう)先生が初めてコントラバスで演奏会の本番に出たのは、楽器を初めて半年の中学生の頃だったそうよ」

「本条先生が……中学生で?」

 知っている名前に、千鶴は声を上げそうになった。

 あの、千鶴が星の宮ユースオーケストラの練習や本番で見かけて話したことも、使っている楽器を弾かせてもらったこともある頼もしげな女性のコントラバス奏者のその話は、千鶴にとって意外だった。

「でも、本条先生って、プロになれるぐらいだし――」

「そう思う? 本条先生、その頃は身長がまだ一六〇センチに届いていなかったそうよ。今の波多野(はたの)さんぐらいかしら、ね」

「……今の私のより二十センチぐらい低いってことですか?」

「そう。そもそも、千鶴さんのようにコントラバスを弾くのに支障のない女の子自体、珍しいのよ。普通は音階を弾くのだって初心者のうちは苦労するけれど、あなたはそのハンデが最初から存在しないの。となれば」

「……その次に行くのも、難しくないってことですか?」

 恐る恐る尋ねてくる千鶴の膝の上の手に、凛々子は改めて自分の手を重ね直してきた。

「そうよ。今日の合奏で、あなたはそれを自分で証明したのよ」

「私が、オーケストラに……」

 言い淀む千鶴の耳に、次の電車の到着を告げるアナウンスが届いてくる。凛々子は残り少ない缶コーヒーを飲み干した。

「行きましょう、千鶴さん」

 空いた缶を自販機のゴミ箱に捨ててから、凛々子は千鶴の手を引いた。

 千鶴は慌てて手つかずのまだ冷たいペットボトルのミルクティを楽譜の入ったトートバッグに仕舞うと、長いフレアスカートを摘まんで凛々子に引かれるまま電車に乗り込んだ。


 帰宅してから、未乃梨(みのり)は入浴を済ませると自室でクッションを抱えながらベッドの上でうずくまっていた。

(……本当に、私、何やってるんだろう)

 コントラバスの上達した千鶴が初対面の演奏者を含む弦楽合奏の練習で馴染んでいたことは、未乃梨にとって小さくないショックだった。それに加えて、未乃梨がどうしても見過ごせないことがあった。

(凛々子さん、千鶴のことを気にして、合奏練習中に見てた……? まさか、チェロとか他の低音も含めて見てただけじゃないの?)

 そう打ち消したくても、ヴィヴァルディの「調和の霊感」の練習の後で指導者らしきやや年配の女性と、千鶴に何かを話していたのはどうしても引っかかってしまう。しかも、凛々子はその場で手本らしいことをヴァイオリンで弾いて見せてすらいた。

(今日練習で使ってたセシリアホール、コンクールの本番で千鶴が舞台袖から私を見守ってくれた場所なのに……凛々子さんに関係ないことだって、分かってるけど)

 その同じ舞台を、千鶴が自分ではなく凛々子と一緒に立っていて、それは発表会の本番でもそうだということが未乃梨はまだ飲み込めていない。

(……私だって、千鶴のソロの伴奏で一緒にステージに上がるけど……でも、私はいつも吹いてるフルートで、吹奏楽部の本番で千鶴と一緒に演奏したい)

 未乃梨はまだ、堂々巡りの思考を続けていた。

(千鶴、……この前はほっぺだけどキスさせてくれたのに、どうして……)

 未乃梨は、ベッドの上で抱えたクッションをぎゅっと抱きしめた。


(続く)

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