♯306
先に帰ってしまったことに、小さな後悔を抱えて家路につく未乃梨。
一方、凛々子は途中までの帰り道に千鶴を誘って……。
「未乃梨、用事があるなんて一言も言ってなかったのに……?」
スマホの画面を見て首を傾げる千鶴の後ろから、波多野がひょっこりと背伸びをした。
「江崎さん、どうしたの?」
「実は、未乃梨が先に帰っちゃって。用事があるとからしいんですけど」
千鶴が差し出したスマホの画面に、波多野も渋い顔をした。
「それはまた。当日のタイムテーブルとか、伴奏者にも伝えることもあったと思うけど」
「じゃ、後で私から電話かメッセージで伝えておきますか」
スマホに表示されている未乃梨からのメッセージを見ている千鶴と波多野に、いつものワインレッドのヴァイオリンケースを肩に提げた凛々子が声を掛けてきた。
「コントラバスのお二人、お疲れ様。どうかしたの?」
「小阪さんが先に帰っちゃったんだってさ。急用とからしいけど」
波多野の話に、凛々子も形のいいあごに手をやった。
「困ったわねえ。この前みたいに、体調を急に崩した、とかではないといいけれど」
「今日はずっと元気そうだったんで、それはないとは思うんですが……」
「だと、いいわね。千鶴さん、スマホに今後の練習予定と当日のタイムテーブルを送っておくから、未乃梨さんにお知らせしておいてくれるかしら?」
凛々子は自分のスマホを取り出すと、千鶴のアドレスに当てて何やら送った。程なくして、千鶴のスマホの画面が明滅して着信を告げる。
千鶴は、凛々子からのテキストファイルが添付されたメッセージを少しの間確認すると、スマホを仕舞った。
「……わかりました。伝えておきます」
「おーい、コンバス二人、片付け終わってたら楽器積み込むよー」
智花の声が舞台袖の出入り口から聞こえて、波多野は返事をした。
「はーい。今行きまーす」
駆け出した波多野を追う前に、千鶴は凛々子に振り返った。
「凛々子さん、……それじゃ後で」
「行ってらっしゃいな。待ってるわ」
手を振る凛々子に見送られて、千鶴はコントラバスを積み込みに走り出していった。
セシリアホールを出てから電車を乗り換えるまでに、未乃梨の目の赤みは引いていた。コンパクトで見た自分の顔を見て、未乃梨は小さな安堵と同じくらいの後悔に、少しの間うなだれてしまった。
(……千鶴、絶対変に思ったよね。いきなり帰っちゃったんだもん)
電車の窓の外は、そろそろ空が夕方の赤みに染まりつつある。空の鱗雲が、これから日没が早まっていく季節に入ることを思い出させていた。
窓の外をぼんやり見ていた未乃梨のスマホが、不意に震える。未乃梨は誰からの着信かを確かめて、申し訳無さと安堵でないまぜの気持ちで頭が一杯になってしまった。
(千鶴からだ。……心配させちゃった、よね)
――急用があったって聞いてびっくりしちゃった。発表会の練習がまた一週間後にあるのと、その次の日曜日の本番のタイムテーブルを送っておくね
千鶴からの、今後の予定が書かれたテキストファイルが添付されたメッセージを見て、未乃梨は早速返事をした。
――心配させちゃってごめん。予定とか、ありがとう
――来週も合奏練習以外に希望者はピアノ合わせができるから、もし良かったら来てね
――千鶴、ありがとう。また相談しようね。それじゃ、学校で
千鶴にメッセージを送り終わる頃には、電車は紫ヶ丘高校の最寄り駅を過ぎていた。そこから電車だと決して遠くはないはずの未乃梨の家の最寄り駅までが、随分と長く感じる。
(私が、ひとりで勝手に変なことで悩まないで、最後まで残ってたら、いつもみたいに千鶴と一緒に帰れたのに)
じわりと小さかった後悔が広がり出して、未乃梨はただひたすら自分の足元を見た。
セシリアホールのロビーで待っていた凛々子を見つけて、千鶴は長いフレアスカートを摘まんで駆け寄った。
「凛々子さん、お待たせ」
「それじゃ、途中まで一緒に帰りましょうか。よろしいかしら?」
凛々子は、空いている右手を千鶴の隣で浮かせてみせた。
「……わかりました」
千鶴の、成人の男性と同じかひと回りほど大きい左手が、凛々子のたおやかな手を受け止める。
セシリアホールから駅までの道を、千鶴は凛々子の手を預かったままゆっくりと歩いた。普通に歩くなら凛々子よりずっと広くなってしまう歩幅を何とか合わせようとしている千鶴に、凛々子が微笑む。
「千鶴さん、こんな大きな手でコントラバスを弾いているのよね。頼もしく聴こえるはずだわ」
「今日、初めて弦楽合奏で弾きましたけど……私のコントラバス、変じゃなかったですか?」
千鶴は、まだ自信が持てないでいた。ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の冒頭で大きな音を出してしまったり、失敗を指摘されたわけではないとはいえ、休憩前の吉浦から指導を受けたりしたことはまだ気になっていた。
「あら、四月からずっと私が教えてきたのに、まだ不安があるのかしら?」
凛々子が、いたずらっぽい眼差しで千鶴を見上げてくる。行き交う車に煽られた夕方の空気が揺れて、凛々子の緩くウェーブの掛かった長い黒髪がふわりと吹かれた。
凛々子の髪から漂う微かな甘い香りに鼻腔をくすぐられて、千鶴は言葉を詰まらせる。
「そういう訳じゃ、ないですけど……」
預かっている凛々子の手が、ひんやりと心地よく冷たい。自分の手が熱くなっていることに気付いて、千鶴は駅につくまで、凛々子の顔を見ることができないまま、その手を預かって、エスコートするように歩いた。
(続く)




