♯303
チャイコフスキーの「ワルツ」の練習で起こった小さなトラブルと、それに気付いた千鶴と波多野。二人が取った行動に、他の演奏者たちは……?
チャイコフスキーの「ワルツ」が始まってすぐ、凛々子の後ろでヴァイオリンを弾いている年少の演奏者がややもたついた。先頭に座る凛々子が一緒に弾く主旋律で、明らかに何人かが旋律に含まれる装飾音符をさばききれず、凛々子一人なら爽やかに聴こえてくるはずの旋律に濁りが生まれていた。
千鶴はコントラバスを弾きながら、凛々子の後ろでヴァイオリンを弾いている、中学生かともすると小学生ぐらいの演奏者たちを見た。ヴィオラから下の中低音パートが休んで、二部のヴァイオリンが重なりながら旋律を歌う箇所で、それは顕著だった。
(あれ? ヴァイオリンのパート、凛々子さん以外なんか焦って弾いてない?)
第一ヴァイオリンの先頭の席で落ち着いて弾いている凛々子と違って、後ろに座る演奏者は急かされているようにテンポが急いでいる。
(やっぱり、ヴァイオリンの子たち、凛々子さん以外だんだん速くなってってる? こういう時って、どうすれば)
休みの小節で、千鶴は自分の左隣りでコントラバスを支えて立っている波多野に顔を向けた。波多野は千鶴が自分に顔を向けたことにすぐ気付いて頷くと、休みの小節の終わり際に弓を持った右手をゆっくり、やや大袈裟に振った。
波多野の右腕の振りに、千鶴も動作を合わせた。波多野と千鶴の動きに第一ヴァイオリンのフレーズの最初の音符が重なって、落ち着いて演奏できている凛々子を軸にヴァイオリン全体の旋律が、そして速まりそうになったテンポ引きずられかけたヴィオラとチェロの伴奏が整っていく。
それでもまだ焦りぐせが残っているらしい凛々子以外のヴァイオリンを、波多野はピッツィカートで伴奏する箇所に入ってからはっきり目にコントラバスの弦をはじいて、速まりそうになるテンポに釘を差した。千鶴も、波多野の演奏にならってブレーキを掛け気味にその演奏に付いていく。
千鶴は波多野に合わせてコントラバスを弾きながら、自分たちから離れた第一ヴァイオリンの席の先頭に座る凛々子を見た。ヴァイオリン全体の旋律に美しいテンポの揺らぎが生まれて、軽やかでゆったりと踊るような優美さが立ち昇ってくる。
凛々子のヴァイオリンを弾く所作にも、フレーズに合わせたダンスのような微かな揺れが見えた。千鶴の中に、凛々子に手を取られてワルツのステップを試しに踏んだことが思い出される。
(……あの時、ダンスのステップを凛々子さんが教えてくれたのって、そういう……?)
千鶴は、いつしか自分が誰かをリードしたり、されたりしながらステップを踏んでいるような気持ちで、「ワルツ」の三拍子の伴奏を弾いていた。
吉浦はチェロを弾きながら小さく眉を動かした。
先程のヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番と同じメンバーで演奏している「ワルツ」のテンポは、想定していたより僅かに遅くなっている。が、その遅さがかえって「ワルツ」の旋律の優美さや、フレーズの揺らぎの美しさを浮き立たせて始めていた。
(……第一ヴァイオリンが急いでいることに気付いて、誰かがブレーキを掛けているわね? それが出来るのは)
自分の後ろで鳴っている、三拍子の小節の頭を弾く低音の伴奏に吉浦は耳をそばだてた。弓でも弦を指で直接はじくピッツィカートでも、音の輪郭をはっきりさせてなおかつテンポを遅くしている後ろの演奏者に、吉浦はすぐに納得した。
(なるほど、波多野さんがテンポのブレーキを掛けているわけですか。……その波多野さんに、隣の江崎さんがついてこれている?)
吉浦の後ろにいる二人のコントラバス奏者は、第一ヴァイオリンが急いだことに端を発するアンサンブルの崩れをすぐに食い止めていた。経験の十分にある波多野はともかく、コントラバスを始めて日が浅いはずの千鶴がその波多野に合わせられていることに、吉浦は驚かずにいられない。
(テンポの速まりに江崎さんも気付いて、波多野さんに合わせたというところかしら。未熟でもそこは合奏を支えるコントラバス奏者らしいわね)
第二ヴァイオリンとチェロに主旋律が回ってくる箇所で、吉浦は波多野に千鶴がついてきて作ったやや遅いテンポの感触を改めて確かめた。ただ遅めになっただけではなく、テンポが微かに揺らいでチャイコフスキー特有の、花の香りが甘く漂うような旋律の優美さが浮かび上がりつつある。
吉浦は、第二ヴァイオリンとチェロの上で遊ぶように動き回る第一ヴァイオリンの対旋律に耳を向けた。その軽やかな遊びのある動きは、テンポを落ち着かせる方向に引っ張ったコントラバスと同調しているように思われた。
ふと、吉浦はあることに気付いた。
テンポが落ち着いてから、第一ヴァイオリンの先頭に座る凛々子の表情が柔らかい。その凛々子が、頻繁にチェロの後ろに目をやっているように思えるのだ。
それも、凛々子が見ている方向は、二人いるコントラバスのうちまだまだ音が荒削りな、休憩時間に吉浦が直々にヴィヴァルディの演奏で軽く指導をした方に違いない。
(仙道さん、どうやら相当江崎さんに入れ込んでいるようね。でも)
背後で波多野と一緒にコントラバスを弾いている千鶴の音は、ヴィヴァルディの練習で指摘した音量や音色のことを、不完全ながら踏まえているようだった。無意味に大きな音を出したり、ワルツの流れも妨げてしまうような重い弓づかいは陰を潜めている。
(仙道さんの見立ては悪くないかもしれないわよ。江崎さん、教え甲斐がありそうね)
吉浦も、チャイコフスキーの「ワルツ」に生まれた美しい揺らぎが心地よくなりつつあった。
(続く)




