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302/363

♯302

舞台の上にいる変わっていく千鶴に複雑な未乃梨を他所に、沢山のことを吸収していく千鶴。

そして、その日の発表会の練習の、最後の合奏の曲が始まって……?

 凛々子(りりこ)波多野(はたの)と一緒に舞台から上手の袖へと去っていく千鶴(ちづる)を、未乃梨(みのり)は客席から見送った。

 舞台の上で初めてのヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の合奏で、コントラバスをしっかり弾ききった千鶴は弦楽合奏の一員として頼もしげに見えたし、その後で指導者らしい白髪混じりの長い髪を引っ詰めた白髪交じりの長い髪を引っつめてまとめた、やや年配の上品そうな女性から叱責されるどころか何やら指導を緊張しながら受けている千鶴も、未乃梨にはどこか誇らしい、はずだった。

 未乃梨の中で、千鶴と自分との距離が開いていくような寂しさが、弦楽合奏の練習を客席で聴いていてやはりとめどなく湧いて来てしまっていた。

(千鶴が、あんな風に立派にヴァイオリンやチェロの人たちと演奏をして、指導の先生っぽい女の人からも何かを教えてもらえてるって、凄いことのはずなのに……どうして、喜べないんだろう)

 理由は、未乃梨にはそれとなく分かっていた。人がまばらなセシリアホールの客席で、未乃梨は背もたれに身体を沈めるように寄りかかって、広い天井をただただ見上げる。

(隣には同じ弦バスの波多野さんもいて、前には一緒に「あさがお園」で演奏したチェロの智花(ともか)さんも座ってて。……それだけなら、良かったのに)

 どうしても未乃梨にとって気になる人物が、休憩の前に千鶴が年配の女性から指導を受ける時に一緒にいたことが引っかかっている。

 しかもその未乃梨が気になる人物、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の少女は、千鶴が指導を受けている時に手本をヴァイオリンで弾いてみせていた。それが、どうにも未乃梨にとってやるせないのだ。

(しかも、ここってコンクールの地区大会の会場だったセシリアホールじゃない? 本番の演奏を千鶴が袖から見守ってくれた場所で、あんな風にまた凛々子さんが千鶴に接近して――)

 納まりきらない気持ちを整理しかねている未乃梨の耳に、不意に部活の合奏前によく聴くのと似た高さの音が届いてくる。それは、未乃梨がよく知っている吹奏楽部でのチューニングの音より半音ほど低いような気がして、未乃梨ははっと身体を客席の背もたれから戻す。

(この音、吹部でしょっちゅう聴いてる(べー)じゃなくて、多分その半音下の(アー)だ……そういえば、弦楽器ってAでチューニングするんだっけ)

 舞台の上では、発表会の弦楽合奏に参加する演奏者が集まってきている。舞台の下手に陣取る第一ヴァイオリンの席の先頭で、凛々子が音叉で確かめたAの音をしっかり響かせて、他のパートに伝えて調弦を促していく。

 凛々子の席から最も遠い、舞台上手側のやや奥でコントラバスを構えて立っている千鶴と波多野も、届いてくるAに合わせて各々の楽器を調弦している。時折聴こえる低くて重い開放弦ですら、千鶴の音は今日一日で随分と変わっているように、未乃梨には思われた。

(……今からやる曲の練習で、今日はおしまいなんだよね。……もうすぐ帰れるんだし、千鶴が誰と一緒でもここで待ってなきゃ)

 未乃梨は、練習が始まろうとする舞台から視線を外すと、客席でうずくまるようにうつむいた。


 練習が始まる少し前に、千鶴は弓を締め直してからコントラバスの弦を軽くはじいて音を確かめた。

(調弦はそこまで狂ってないかな?)

 その千鶴をコントラバスを抱えた小柄な波多野が呼び止める。

江崎(えざき)さん、舞台の照明って意外と熱いから、合奏前にさっき教えた方法で調弦を確かめてね」

「わかりました。さっきのフラジオレット、ですよね?」

 うなずく千鶴に、波多野も「そうそう」と相槌を打つ。

「んじゃ、最後のチャイコフスキー、楽しむとしますか」

 どこか楽しそうな感情が声に滲み出ている波多野に続いて、千鶴は袖から舞台の上手に出た。舞台の下手側にいる凛々子が弾いているヴァイオリンのA線の開放弦の音を手がかりにコントラバスのフラジオレットを鳴らすと、波多野の言う通り調弦が少し上擦っていて、千鶴は調弦を急いで整え直す。

 調弦をしながら、千鶴はふと客席を見た。舞台から離れた客席で、座席にもたれて天井を見上げたままだった誰かが弾かれたように身体を起こしているのが見えた気がした。

(あれって、もしかして未乃梨、かな?)

 そんなことを思う間に、前のチェロの席に座っている吉浦(よしうら)が、舞台に出ている演奏者全員に向けて合奏練習の開始を告げる。

「それでは今日最後の曲、チャイコフスキー作曲『セレナード』のワルツの練習を始めましょう。皆さん、準備はよろしいですね?」

 白髪交じりの髪を引っ詰めた吉浦は、後ろにいる千鶴や波多野の方にもしっかりと振り向いた。その表情は厳しさは依然としてあっても、千鶴を何故か安心させた。

(吉浦先生、少なくとも私のコントラバスの演奏がダメだとかは言ってない。凛々子さんにも色々教わったんだし、大丈夫なはず)

 ゆっくりとした三拍子の弱拍から忍び込むように始まる第一ヴァイオリンの旋律から、チャイコフスキーの「ワルツ」は始まった。遠くに見える凛々子ほかの第一ヴァイオリンが弾く旋律に伴奏を付けながら、千鶴はふと学校での練習を思い出す。

(……あの時、音楽室から聴こえるコンクールの練習に合わせて、凛々子さんと一緒に踊ったんだっけ。あの感じで弾けば……あれ? ただのリズム打ちなのに、何だか面白いぞ?)

 そう思って、楽譜に書かれた三拍子のサイクルの起点に入る音を弾いてみると、一見して単純なコントラバスパートが信じがたく楽しいと、千鶴は気付いた。

 流れ始めたワルツに、千鶴はふわりと身を任せていった。


(続く)

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