♯301
ヴィヴァルディの練習の後で吉浦から叱責を含まない指導を受ける千鶴。
経験がまだ浅いなりに上達していた千鶴のコントラバスに、波多野と凛々子は……。
ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の全ての楽章の練習が終わると、千鶴は舞台の上で大きく息をついた。
長い休符が続いた第二楽章とは違って頻繁にコントラバスの出番がある第三楽章では、千鶴はひたすら余計なことを考えないように心掛けて弾いた。その結果、千鶴はヴィヴァルディの演奏中にいくつか発見したことがあった。
(吉浦先生に言われた通りに、弓の幅をタイトにして音量を抑えたけど、余計に音が鳴っちゃったような? あれで良かったのかな?)
ぼんやりと考え込むをする千鶴を、隣の波多野の声がその思案から引き戻した。
「江崎さん、休憩だって。十五分後にチャイコフスキーだってさ」
「あ、はい」
千鶴はコントラバスを舞台の床に寝かせようとして、今度は別の人間に呼び止められた。
「千鶴さん、ちょっといいかしら? コントラバスをまだ構えていてほしいのだけれど」
呼び止めたのは凛々子だった。千鶴は緩めようとしていた弓を持ち直すと、目の前にヴァイオリンと弓を手にしたままやってきた凛々子と、その後ろで腕組みをしている少し厳しく見える顔の吉浦を見て、コントラバスを支えたまま天井から吊り下げられたように背筋を正した。
「あ、あの、どうも」
やや間の抜けた会釈をする千鶴に、吉浦は表情を崩さずに千鶴の前に進み出る。
「とりあえずはお疲れ様。ところで江崎さん」
「は、はい、何でしょうか」
「全く。さっきの演奏はあんなに堂々としていたのに。まあいいわ、ヴィヴァルディでちょっと注文があります」
「注文、ですか」
「ええ。仙道さん、ヴィヴァルディの三楽章の頭、弾いてくれる?」
吉浦に促されて、凛々子は「調和の霊感」第八番の第三楽章の開始部分を弾き始めた。軽快にイ短調の音階を下降していく八分音符が、凛々子のヴァイオリンから流れていく。
凛々子が四小節ほど弾いた辺りで、吉浦は凛々子の演奏を止めさせた。
「仙道さん、ありがとう。江崎さん、まだコントラバスを始めたばかりで荷が重いかもしれないけれど、ヴィヴァルディの速い楽章では今の仙道さんみたいに弾けるように練習してみてくれるかしら?」
「凛々子さんみたいに、ですか?」
「そう。開放弦でいいから、今のヴィヴァルディのテンポで八分音符を弾いてみてちょうだい」
「……わかりました」
千鶴は、出来るだけ弓の幅を使わないようにして、先ほどの凛々子の弾いたテンポでコントラバスのD線を弾いた。ごつごつと重い八分音符が鳴りだすのを、吉浦は咎めもせずに聴いている。
吉浦は千鶴にコントラバスの開放弦を弾かせた。
「江崎さん、そのまま八分音符を弾きながら、弓の棹を自分の方に傾けて弾いてごらんなさいな。弓の毛がバスの弦に全部くっつかないように、腕に力を入れないように、ね」
(あれ? 凛々子さんに似たようなことを教わったような? でも、速いテンポで弾く時にそういう弾き方ってするのかな?)
半信半疑のまま、千鶴は吉浦に従った。コントラバスの弓が弦の張力で跳ね返されるような感触が右手に伝わってきて、千鶴が弾く開放弦での八分音符に、凛々子のヴァイオリンには及ばないものの、はっきりと軽快さが増した。
「こう、ですか?」
「そう、その音のイメージよ。チェロやコントラバスは重たい音ばかり弾く楽器ではないの。特にヴィヴァルディのようなバロックを弾くときは、そういう練習もしていらっしゃいね。それでは、チャイコフスキーまで休憩よ」
吉浦は厳しく見える顔のままゆっくりと頷くと、凛々子と波多野に「江崎さんのサポート、あなた達にも宜しく頼むわね」と言い残して舞台袖へと去っていった。
千鶴は、どっと疲れたようにコントラバスに寄りかかった。
「叱られるかと思った……」
「大丈夫だよ。言われたことを改善できるって思ったから先生もわざわざ指導してくれたんだし、そういうのについてこれない子は凛々子さんも発表会に誘わないよ。ねえ?」
面白そうにくすくすと笑う波多野に、凛々子も口角を上げる。
「そういうことだから、放課後の練習は今教わった軽い音のボウイングもやりましょうね?」
「……やること、どんどん増えていくんですね」
「そうね。でも、それは千鶴さんに出来ることが増えたってことでもあるの。初めての本番のこと、思い出してごらんなさいな」
「そういえば……」
千鶴は、凛々子や客席でさっきの練習を聴いていたであろう未乃梨と一緒に演奏した、「あさがお園」での本番を思い出した。
「そういえば、『主よ、人の望みの喜びよ』とか、パッヘルベルの『カノン』って左手のポジションはほとんど動かなかったし、右手もそんなに細かい動きがなかったような……?」
波多野が三つ編みの髪を揺らして、千鶴に笑みかける。
「それが自分で分かっていれば十分だよ。この分だと、後でやるチャイコフスキーも楽しみだね?」
「楽しみ……ですか?」
小首を傾げる千鶴に、波多野は今度は凛々子に笑みかける。
「ワルツの伴奏って、弾いてるときはコントラバスやってて良かった、って思うんだよね」
「ある意味、ワルツの一番美味しいところですものね。そういうのって、私も低音楽器に嫉妬しそうになるわ」
目の前で楽しそうに笑う二人に、千鶴は小首を傾げたままだった。
(続く)




