♯300
ヴィヴァルディで明らかになっていく、千鶴の演奏者としての進歩。
それは、凛々子と未乃梨に正反対のものを投げかけて……。
ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の第二楽章で、二人の中学生のソリストの伴奏に回ってヴァイオリンを弾きながら、凛々子は溜め息をつきかけた。
(合奏のヴァイオリンとヴィオラの子たち、やっとエンジンがかかってきたかしら)
凛々子の近くに座っている合奏のヴァイオリンやヴィオラのパートに座っているのは中学生かともすると小学生で、合奏の経験にも乏しく身体もまだ出来上がっていないことを思えば、どうしても最初は萎縮して弾いてしまいがちなのは、凛々子も分かってはいた。
一方で、合奏の第一及び第二ヴァイオリンが座っている下手から見て反対側、つまり舞台の上手側に座っている凛々子が発表会に誘ったひとつ歳下のコントラバス奏者は、女の子としては平均を遥かに超えて高い長身に巨大な弦楽器を左の腰で支えながら、第二楽章での数少ない出番である全体でのユニゾンの箇所を隣の波多野と一緒に待ち構えている。
(千鶴さん、もうあんなに弦楽合奏に馴染むなんて。……にしても、今日の千鶴さん、随分お姉さんっぽい服で来たのね)
客席側の隣でコントラバスを構えている、カーディガンにチノパンで身長は高校生の女子の平均ぐらいの波多野と並ぶと、長身で半袖の前開きシャツに長いフレアスカートの千鶴は、凛々子の目から見てもフェミニンに映る。
その千鶴が第二楽章を締めくくるユニゾンの主題を、チェロから上の合奏のメンバーと同じどころかそれ以上に堂々と演奏しているのは、凛々子としてはどうしても目が向いてしまうようでもあり、またどこかである種の驚きも少しはあるのだった。
(四月に始めて会った時は男の子っぽかったのに。……こんな風に変わるなんて、これから千鶴さんがどう綺麗になっていくかも、気になってしまうわね)
そんな微かな雑念も、凛々子には演奏の妨げとはならなかった。むしろ演奏者としても、一人の女の子としても千鶴がひと皮剥けていく瞬間を見ているようで、凛々子は余計に千鶴がこの場にいる合奏に集中していく。
「調和の霊感」第八番が最後の第三楽章に差し掛かって、客席で聴いている未乃梨は息を飲んだ。
第一ヴァイオリンから第二ヴァイオリン、続いてヴィオラと音階を下降していきながら勢いを増すフレーズを、チェロと一緒にコントラバスが受け止める。その箇所で、千鶴の音は強靭な響きをもたらしていた。
(千鶴、弦バスでこんな音を出せたの? ……今日の千鶴、やっぱり、凄い……!?)
その千鶴は、舞台の上で特に気負った様子もなく、隣の波多野と一緒に表情を動かさずに右手の弓も左手の指遣いも乱れさずに合奏全体をその低音で支えている。
その姿と聴こえるコントラバスの音に、未乃梨はどうしても胸の奥から浮き上がってくる思いがあった。
(千鶴のこんな音をもっと近くで聴きたい。もっと、部活の合奏で、千鶴と一緒に演奏したい。……来年の夏のコンクール、千鶴の弦バスに伴奏されながらフルートを吹きたい……!)
ヴィヴァルディの快活な面が現れ始めている舞台の上の演奏に、千鶴と一緒に演奏しているという一点で、未乃梨に羨望に似た何かを呼び起こしていた。
(……発表会の合奏が弦楽器だけの縛りじゃなかったら、私も入れてもらえたかな。……凛々子さん、ちょっとずるいって思っちゃう。自分も弦楽器同士だから、千鶴と一緒に演奏できちゃうんだもん)
舞台の下手に目を移すと、凛々子は星の宮ユースオーケストラの演奏会でコンサートミストレスの席に座っていた時と同じように、目と耳に神経を集中させて弓の動きや身振りで合図を出したり、管楽器のようにブレスを取ったりしてアンサンブルをまとめ上げていく。
その凛々子は、時折舞台上手に明らかに視線を送っていた。
小節の頭にチェロとコントラバスが音を置いて大きなサイクルでビートを作っていく時に、凛々子は智花や吉浦といったチェロの演奏者の後ろに立っているコントラバスパートを間違いなく見ている。
未乃梨がそれに気付いて、とある疑念が浮かんできた。
(凛々子さん、またあんな風に弦バスの方を見てる? ……もしかして、……凛々子さんって千鶴のこと、これからも自分と一緒の演奏に誘いたいのかな?)
その、未乃梨の中のあやふやな疑念は、にわか雨を降らせる雨雲のように急速に広がり始めた。
(凛々子さん、また「あさがお園」とか今度の発表会みたいな本番に、千鶴を誘いたいの? もしかして、前に星の宮ユースオーケストラの練習の見学に千鶴を誘ったのも? 四月に弦バスを始めたばっかりの千鶴を見つけて付きっきりで教えるようになったのも、もしかして、そういうことなの!?)
未乃梨の耳に、もはや舞台の上で練習しているヴィヴァルディの音楽は入って来なくなっていた。
(このままじゃ、私、千鶴から取り残されていっちゃうの? そんな……?)
舞台の上のヴィヴァルディが最後の和音に辿り着いても、未乃梨はその自分の中のあやふやな不安から逃れることが、できなかった。
(続く)




