♯30
朝の練習で、ひょんなことから浮かんだ千鶴と未乃梨の演奏のアイデア。
二人の音は、意外なところから磨かれて……?
朝の音楽室で、未乃梨はコントラバスを準備する千鶴に、ある意味突拍子もない相談を持ちかけた。
「ねえ千鶴、『G線上のアリア』なんだけどさ。ちょっと、やってみてほしいことがあるんだけど」
「何? やってほしいことって」
「弦バスでしかできないこと、やってみない?」
「コントラバスでしかできないこと……? なんだろ?」
怪訝な顔をする千鶴に、未乃梨は「ほら、あれ。『スプリング・グリーン・マーチ』のトリオでやってたやつ」と、組み立てたばかりのフルートのキイを押さえて指遣いを確かめながら言った。
「ピッツィカート、って言うんだっけ。『アリア』の弦バスのパート、それで弾いてみない?」
「弓じゃなくてピッツィカートで? じゃ、やってみようか」
千鶴は未乃梨の急なアイデアに面食らいつつ、弓を持たずにコントラバスを構えた。
未乃梨のブレスに合わせて、千鶴も唇を小さく開いて軽く息を吸ってから、「G線上のアリア」の自分のパートをピッツィカートで弾き出した。弓で弾くのに比べて打点のはっきりした低音が、オクターブで行き来しながら進んでいく。
千鶴はコントラバスを弾きながら、昨日凛々子と同じ曲を合わせたことを思い出した。凛々子がヴァイオリンで真似した通り、未乃梨のフルートは真っ直ぐに澄んだ音で「G線上のアリア」のメロディを紡いだ。ただ、この曲で未乃梨のフルート一人を伴奏するには、打点のはっきりしたピッツィカートでは少しばかり未乃梨の澄んだ音には似つかわしくないように思われた。
(未乃梨のフルートに似合う伴奏……もっと小さく? いや、もっと出しゃばらない音でなら?)
「G線上のアリア」は前半の繰り返しに差し掛かっていた。千鶴は、八分音符のひとつを、鳴らしそこねそうになった。
千鶴の右手の指は、左手でコントラバスの弦を押さえている場所に近い、普段ピッツィカートで弦をはじく場所よりずっと高い位置を引っ掛けていた。いつもより軽くて粒のはっきりした、出しゃばらない音量がコントラバスから鳴った。
(これ、もしかして……?)
千鶴は、閃いたアイデアを持ったまま繰り返しに入った。
未乃梨は「G線上のアリア」の繰り返しに入ってから、千鶴の音が明らかに切り替わったことに気付いた。
(千鶴の弦バスの音、さっきまでピアノの低音みたいに重たい音だったのに……何!?)
千鶴のコントラバスが、繰り返しに入る前より遥かに軽やかで、余分な響きを残さない弾き方に変わっていた。千鶴の右手が、いつもの指板の下半分あたりよりずっと高い位置の、ネックと胴体のつなぎ目あたりでコントラバスの弦をはじいている。
右手が高い位置にくるその千鶴の弾き方は、ハープか何かの低い音のように、未乃梨には感じられた。
(千鶴がこんな弾き方を……今、思い付いたの? まさか、誰かに……?)
未乃梨の頭に、一瞬凛々子の顔が浮かびかけた。それを、未乃梨は無理やりに打ち消した。
(誰に教わったっていいじゃない。今、千鶴は私のために弾いてくれてるんだから……!)
「G線上のアリア」はそのまま後半に差し掛かった。千鶴はコントラバスを弾きながら、未乃梨の表情が一瞬何かを浮かべかけたことに目を留めた。
(この弾き方、よくなかったかな……? でも、未乃梨の音は邪魔してないはず。このまま……!)
千鶴の音はどこまでも軽やかに進んだ。少しずつ、じわじわとテンポが上がって、未乃梨の運指を僅かに狂わせた。
未乃梨の吹くメロディに、水滴が飛び散るような遊びが生まれた。それは、曲の流れを濁す汚れではなかった。
(あれ? この曲、楽譜に書いてない音が入っても、崩れないの……?)
不思議に思った未乃梨は音の離れたフレーズで、その間を音階を繋げるようにわざとフレーズを転ばせた。蓮の葉を転がる水滴のように、未乃梨のフルートの音が転がって、「G線上のアリア」が終止符にたどり着いた。
数秒ほど、千鶴と未乃梨は顔を見合わせた。口を開いたのは、ほぼ同時だった。
「あの、未乃梨、今の弾き方、変だった?」
「千鶴、楽譜に書いてない音入れちゃって、ごめん」
「え?」
「あれ?」
「未乃梨、今の、狙ってアドリブでやったんじゃなかったの?」
「待って? 千鶴、今の弾き方、なんか良かったよ?」
千鶴と未乃梨は再び顔を見合わせた。今度は数秒沈黙したあと、千鶴も未乃梨も、可笑しそうに笑った。
「千鶴、月曜日の合わせも、その弾き方でやろうよ!」
「未乃梨も、その吹き方、繰り返しに入ったらもっとやってみない?」
「いいね。じゃ、明日の朝また詰めてみよっか?」
「うん。放課後は未乃梨はパート練習あるし、また、明日ね」
千鶴は音楽室の時計を見上げた。そろそろ、楽器を片付けなければ一限目の授業に遅れてしまう時間だった。
「じゃ、千鶴、今朝はここまでね」
「うん。仙道先輩にも、ピッツィカートに変更のこと伝えとくね」
「お願いね。急ごっか」
千鶴と未乃梨は、それぞれの楽器の片付けを急いだ。
千鶴がケースに収まったコントラバスを仕舞って、未乃梨がフルートケースを肩に提げて、二人が音楽室を出た辺りで予鈴が鳴った。
「未乃梨、急ぐよ!」
「ちょっと千鶴、先に行かないでよ! 元運動部の足に私が追いつくわけないでしょ!」
ぱたぱたと上履きの音を響かせて、二人は教室へと急いだ。
(続く)




