♯3
触ったこともない大きな楽器にひたすら面食らう千鶴。
そんな彼女の前に現れた、不思議に大人びた長い髪の上級生は……?
「江崎さーん、こっちこっち」
高森は空いている教室を目ざとく見つけると、その中に巨大な楽器ケースを抱えた千鶴を招き入れた。
高森は担いでいた黒っぽい長方形のケースを適当な机に置いてその外側のファスナーを開けた。
画用紙の束でも入れられそうな、高森のケースの外側に付いている薄くて広いポケットのようなそこから、スマホと同じぐらいの大きさでモノクロの液晶画面がある機械のようなものと、理科か社会の授業で使う資料集ぐらいの判型の薄い楽譜を取り出した。
「こっちが楽器の音を合わせるチューナーで、こっちの本はベースの教則本。部活の練習で使ってね」
「はあ……」
「おっと、その前にベースを出してみようか」
千鶴は高森に促されて、昨日は「弦バス」と呼ばれて今日は「ベース」と呼ばれる巨大な弦楽器を床に寝かせると、人が一人寝袋として中に入れそうなケースを開けた。
小学校や中学校の音楽の教科書で見たヴァイオリンを何倍にも大きくしたような巨大な弦楽器から寝袋のようなケースを剥がすように外して何とか起こすと、千鶴は改めてその大きさに目を見張った。
ぐるぐる巻きの渦の形をした楽器の頭から、中が空洞になっているらしい胴体の一番下の抜き差しができそうな金属の棒の付け根までで、男子と比べても高い千鶴の身長よりなお大きい。
面食らった様子の千鶴をよそに、高森は教則本の最初の方のページを開けた。
「構え方はここを見ればいいみたいだね。やっぱりギターとかと全然違うなあ」
「あの、高森先輩? 弦バスっていうかベース、弾けるんじゃないんですか?」
「ああ、ごめんね。私の専門は別の楽器さ。吹部以外にジャズ研も掛け持ちしてるから、ベースのことも詳しいんじゃないかって先生にお願いされただけなんだ」
高森は自分の黒っぽいケースを開けた。中には、分解された黒いクラリネットと、金色に光るうねった管体のアルトサックスが収まっている。
千鶴は、大きな弦楽器を支えたままへたり込みそうになった。
部活が終わって楽器を音楽室に返すと、千鶴は「うーん」と伸びをした。中学時代に助っ人に行った運動部の練習より、ずっと疲れたような気がしていた。
ほとんど初めて楽器を触る千鶴についていた高森は、「そこ、押さえてみて」とか「右手でその弦をはじいてみて」とか、明らかに何も知らない様子で千鶴に指示をしていた。
高森の言うことに従って、やっとのことで音階のようなものを並べられるようになった頃には、部活の練習時間はもう終わりかけていた。その頃にはクラリネットを持った上級生が二人ほどやってきて、千鶴の相手をしている高森に声をかけた。
「あ、玲ったらこんなところに。ジャズ研行ってるかと思った」
「高森さん、明日はクラの新入生の面倒みてもらえる? 一年生が三人も入って手が回らないの」
高森は頭を掻いて二人に「ああ、ごめん」と頭を下げると、千鶴には「暇をみて江崎さんもサポートするから、取り敢えず明日は一人で練習しといて」と平謝りされたのだった。
「弦バス」のパスタよりずっと太くて頑丈そうな金属の弦を押さえた千鶴の左手の指先は溝ができそうな勢いだし、弦をはじいた右手の指先は皮が擦りむけてしまいそうに痛い。楽器を弾くのに総動員した両腕やあまりに大きい楽器を支えた体幹と両脚は、経験したことのない使い方のせいか内側から軋むようだった。
スマホには未乃梨から「校門で待ってて」とメッセージが届いていた。微かに聴こえるフルートのゆったりした音の連なりには、音楽に詳しくない千鶴にも聴き覚えがあった。
(これ、確か未乃梨が中学で吹いていた「メヌエット」って曲だっけ)
千鶴が音楽室を出て昇降口に向かっている頃にも、遠くから聴こえるフルートの「メヌエット」はまだ続いていた。
(あーあ、私もあんな風に曲を弾けるようになるのかなあ)
やっとのことで音階らしきものを、それも未乃梨のフルートとは程遠い無骨で低い「弦バス」の音で何とか鳴らした千鶴には、曲を演奏している未乃梨が随分遠い存在に思えた。
疲れ切った千鶴が昇降口に向かう階段を降りようとして、見覚えのある上級生と出くわした。高森に連れられて空き教室に向かう途中ですれ違った、あの緩くウェーブの掛かった、長い黒髪の上級生だった。
その、スクールバッグとワインレッドのケースを肩から提げた黒髪の上級生は、千鶴の顔を見て「あら、お疲れ様」と会釈をした。
千鶴も、その上級生に「あ、どうも」と曖昧に返事をした。不思議に大人びた、長い黒髪の上級生から千鶴は何故か目を離せなかった。
「あなた、吹奏楽部の子? 今まで練習してたの?」
「あ、はい。弦バスって楽器なんですけど、手とか痛くなっちゃって」
「コントラバスね。すっごく大きいし、大変でしょう?」
黒髪の上級生は意外に気さくらしく、千鶴が自分を見つめていたことはさして気にも留めていない様子で微笑んだ。
その、黒髪の上級生の微笑みに千鶴は、何故か安堵しつつ、「あ、……でも」と意気を落とした。
「誰も教えてくれる先輩がいなくて、明日は一人で練習しなきゃいけないみたいで」
目を伏せかけた千鶴に、黒髪の少女は「まあ」と短く声を漏らす。
「そう。……良かったら、あなたの練習、私が見てあげましょうか?」
「え? 弦バスっていうかコントラバス、弾けるんですか?」
意外な申し出に、千鶴は黒髪の上級生の顔を見つめ返した。
(続く)