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♯299

ヴィヴァルディの「調和の霊感」の第二楽章で、コントラバスパートの長いの中で思わず欠伸が出そうになる千鶴。その千鶴に波多野が教えたことは……。

 波多野(はたの)にけしかけられてテンポと凛々子(りりこ)以外のヴァイオリンやヴィオラの奏者たちの音量を引き上げられたヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番は、ひとまず第一楽章の合奏練習を終えた。

 チェロを身体にもたせ掛けたまま、吉浦(よしうら)は舞台の上に集まっている演奏者のほぼ全員を見回す。

「ソリスト以外の第一及び第二ヴァイオリンとヴィオラの皆さん、合奏の時ももっと自信を持って弾いていいのですよ。積極的に演奏した結果ミスになったとしても、練習であれば恥ずかしいことではありません」

 よく見ると、吉浦はヴァイオリンの中でも合奏の第一ヴァイオリンの先頭に座る凛々子や隣でチェロを弾いていた智花(ともか)、そしてチェロの後ろで陣取るコントラバスの波多野や千鶴(ちづる)の方を見ていない。

 吉浦は続けた。

「一番いけないのは、消極的に演奏した結果何をやっているのか分からない音を出すことです。それは、ソロでも合奏でも同じですよ。そのことをしっかり頭に置いて演奏して下さい」

 隣りで吉浦の話を聞きながら、智花はチェロを抱えたまま内心で頷いた。

(ま、凛々子みたいに合奏慣れしてないとしょうがない部分はあるけど……後ろの二人、やってくれるじゃないか)

 智花は少しばかり愉快な気持ちで後ろを振り向くと、神妙な顔をして俯いているチェロの少年のそのまた後ろで、悠然と構えて吉浦の話を聞いている波多野と、どう振る舞えばいいか分からないといった風情の千鶴が巨大な弦楽器を身体に立て掛けて並んでいる。その表情には、焦りや萎縮といった後ろ向きのものはまるで感じられない。

(あの様子だと千鶴ちゃん、変に緊張したりはしてないか) 

 智花の見る限り、千鶴は少なくとも波多野と同様にまるで萎縮していなかった。まだ勝手の分からない弦楽合奏で戸惑う様子はあっても、その心理の奥は平常通りで落ち着いてはいるのだろう。

 自然体で立っている、高校生の女子としては飛び抜けて背の高い千鶴の左腰に支えられているコントラバスが、ほとんど揺らいでいないのがその証拠だろうか。

(全く、千鶴ちゃんも一端のコントラバス弾きみたいな顔しちゃって)

 智花はますます愉快な気持ちで、次の楽章の練習に臨んだ。


「調和の霊感」第八番の第二楽章でも、千鶴はさして緊張やミスとはほぼ無縁のまま練習についていけた。

 最初最後に置かれたソリスト二人を含めた全員のユニゾンと、その間のヴァイオリンのソロ二人が低音以外の合奏のピアニッシモの伴奏の上で歌い交わすデュエットという構造が何となく頭に入ると、千鶴は第二楽章の中間の長い休みの間、ソロを弾く二人をぼんやりと眺めた。

(ソロの片方の女の子が樋口(ひぐち)さんで、男の子が内村(うちむら)君だっけ。……このソロ、凛々子さんとか、真琴(まこと)さんが弾いてたら、どうなってたのかなあ)

 ソロの二人の演奏は、音程もリズムもバランスもおかしなところは全くない。それでも、千鶴にはどうにも物足りないように思えて、凛々子や真琴のことをつい思い浮かべてしまう。

 ふと、千鶴は口元が緩みそうになって、弓を持ったままの右手当てて欠伸を隠す。その千鶴の肩を、波多野がつついた。

「……江崎(えざき)さん、退屈でしょ?」

 波多野が自分のコントラバスのネックの根元に左腕を預けて、千鶴に小声で微笑みかけてきた。合奏はいっとき止まってソロの二人が何やら凛々子と打ち合わせている。

 その打ち合わせの隙に、千鶴も波多野に小声で応じた。

「……正直、そうかも」

「……仕方ないよ。この曲に限らず、協奏曲って合奏とソロを対比させるのが売りの曲だしね」

「……そうだったんですか?」

 小声のままやや真面目な表情で話す波多野に、千鶴の先ほどから漏れそうになる欠伸が止まる。

 波多野は打ち合わせを続けるソロの二人と凛々子に目を向けながら続けた。

「……この曲だと、ソロを際立たせるために低音はみんな最初と最後以外休みなんだよね。この曲じゃ、私たちコントラバスは静かに出番まで待ってるのが仕事なんだよ」

「……欠伸とか、気をつけます」

 小さく頭を下げる千鶴に、波多野はコントラバスの陰隠して手を振った。

「……本番でやらなきゃいいよ。こういう時、弾かないのも伴奏のうち、ってね。本条(ほんじょう)先生も言ってた」

 聞き覚えのある、あの頼もしげな女性のコントラバス奏者の名前を聞いて、千鶴は思わず背筋正した。

(本条先生、そういうこと言ってたんだ。……「弾かないのも伴奏のうち」、か)

 ソロの二人と凛々子の打ち合わせが終わって、合奏はソロの途中から再開した。第二楽章で全員のユニゾンが再び現れる、最後の箇所までまだまだ休みの小節は続きそうだった。

 その休みの間、千鶴はふと別のことを思い浮かべていた。

(この曲とか、このあとにやるチャイコフスキーのワルツとか、本条先生と一緒に弾いたらどんなことを教わるんだろう。……そんなこと、あるのかな。私が本条先生とか波多野さんと一緒に出る本番、これからあったりするのかな)

 とりとめのないことを考えながら、千鶴はもうすぐに迫っている第二楽章のユニゾンに備えて、コントラバスの弓を構え直した。


(続く)

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