♯298
吉浦の指摘を受けて何とか演奏を修正しつつ、波多野に合わせてコントラバスを弾く千鶴。
波多野の「仕掛け」に付いていく千鶴と変わっていく弦楽合奏のヴィヴァルディに、それを客席で聴いていた未乃梨は……?
再度始まったヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の合奏で、波多野は何か企んでいるかのような素振りでコントラバスを弾き始めた。
(仕掛ける、って……波多野さん、一体何をするつもりなんだろう?)
千鶴は意味ありげな波多野の言葉が気になりつつ、先ほど吉浦に言われたことを思い出しながら演奏についていく。
(音量を出し過ぎず、弓幅をタイトに……って、今、波多野さんもそうやって弾いてる?)
何かを思い付いている様子の波多野の弓の動きは、先ほどの合奏より少しばかり往復する幅が短めで、弓の毛をコントラバスの弦に当てる場所もやや右手の手元に近い。
(あんな風に弾けばいいってこと?)
千鶴が波多野の弓の動きを真似てみると、千鶴が弾くコントラバスの音は先ほどの合奏より引き締まって、小節の中の八分音符単位ビートが鮮明になっていく。
波多野について行きながら弾く千鶴のコントラバスは、先ほどより軽快さを増し始めた。
吉浦は自分たちチェロパートの後ろで弾いている二人のコントラバスの奏者が立ち回りを少し変えてきたことに気付いた。チェロと同じフレーズを一オクターブ下で弾く低音が、引き締まってまとまった粒立ちでリズム浮き立たせる。
(おや、波多野さんがついているとはいえ、さっき指摘したことをすぐに直せるとは)
吉浦が気付いたことはそれだけではなかった。
波多野と千鶴が並んで弾くコントラバスが、車が少しずつアクセルを吹かすようにテンポをじりじりと上げようとしている。引っ張っているのは波多野だろう。客席に近い側のコントラバスは、明らかにわざと正しい拍よりほんの少しだけ飛び出し気味に弾いている。緩やかに加速しようとしているコントラバスの二人の挙動に、吉浦はチェロを弾きながら顔に出さずに首肯した。
(ふむ、さっきよりテンポを上げて、ソロ二人も含めたヴァイオリンどころかアンサンブル全体を加速させたいようね。……よろしい、乗ってあげましょう)
吉浦は休符でチェロの弓を持ち直すと、同じ譜面台を共有して弾いている智花に目配せをした。
低音の弦楽器の挙動が変わり始めたことに、凛々子はすぐに気付いた。アクセルのかかったテンポに、凛々子は難なく乗った。
(このテンポ感、智花さんとか吉浦先生じゃない。コントラバスのどちらかが、仕掛けてきたようね)
少しだけ、しかし明らかに上がったテンポに、ソロを弾いている樋口は二つに結んだ髪を揺らしてしまうほど驚いていたし、内村少年は憮然とした顔になりつつ上がったテンポにあっさりと引っ張られた。凛々子の周りで弾いているヴァイオリンやヴィオラの少年少女たちも、テンポを少し上げられて加減を見失ったのか、音量が上がっている。
(テンポを上げて弾くとついついフォルテ寄りの大きめ音になりがちだけど、それを狙ったようね。仕掛けたのは波多野さんだと思うけど……)
凛々子は小柄な波多野の隣で弾いている千鶴に目をやった。不必要に臆することなくコントラバスを弾く千鶴の姿は、波多野だけではなくチェロの智花や吉浦とも馴染んでいるように思われた。
(ヴィヴァルディは心配なさそうね。……この分なら、千鶴さんを秋の演奏会に誘っても問題ないかしら)
ヴァイオリンを弾きながら、凛々子の口角が一瞬だけ自然と上がった。ヴィヴァルディの音楽が、コントラバスを発端に少し上がったテンポと音量の上がった凛々子の周りに座るヴァイオリンやヴィオラの小中学生の演奏者によって、快活さを増していく。
凛々子の表情の変化を、未乃梨は見つけていた。
(あれ? 今、凛々子さんって笑ってなかった?)
それが演奏している「調和の霊感」第八番のテンポや小型の弦楽器の音量の変化によるものだとは、客席で聴いている未乃梨にも何となく予想はついた。その凛々子が視線を向けている先に気付いて、未乃梨は息を飲んだ。
(凛々子さん、チェロとか弦バスとかの低音の方を見てる? もしかして、凛々子さんが見てるのって……!?)
凛々子が見ている相手は、離れた位置の客席で聴いている未乃梨には確かめようもなかった。それでも、未乃梨には何とはなしに凛々子が見ている相手の目星がついてしまっていた。
初めて参加するはずの弦楽合奏の中で、いつの間にか周りにと馴染んでコントラバスを弾いている、半袖の前開きシャツに長いフレアスカートの長身の同級生。合奏の中で堂々と振る舞う千鶴に、未乃梨もいつしか目を惹きつけられていく。
(千鶴が……コンクールの地区大会があったこのホールで、弦バスをあんな風に弾いてる!?)
舞台の上の千鶴は、高校入ってから未乃梨の目の届かないところで身に着けたものを、数多く見せつけてくるようにすら思われた。
(それも、中学の頃は私服で穿いてることなんかなかったロングスカートで、部活じゃ絶対にやらない曲を、学校の外の弦楽器だけの合奏で……!? 何だか、千鶴がすごく遠いところ行っちゃったみたいな……)
セシリアホールの客席で、未乃梨は身体を強張らせたまま、ただひたすら舞台の上で繰り広げられるヴィヴァルディの合奏練習を聴いていることしかできなかった。
(続く)




