♯297
初めての弦楽合奏に挑む千鶴を客席から見守る未乃梨。
その内幕では、弦楽器については門外漢の未乃梨ですら気付いたとある問題があったようで……?
舞台の上で始まったヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の練習を、未乃梨は客席から見守った。
未乃梨の意識は、舞台上手のやや奥で波多野と一緒にコントラバスを弾いている千鶴に注がれている。
「調和の霊感」第八番の冒頭の小節だけ、千鶴のコントラバスの音が異常に大きく出てしまった時は、未乃梨は流石に気を揉んだ。すぐに音量を引っ込めた千鶴に、未乃梨は内心ほっと安心する。
(もう、びっくりした。でも千鶴、初めて弦楽器だけの合奏に混ざって弾くのに、すぐにバランスを合わせられるなんて)
千鶴や波多野のコントラバスと、その前に座る智花や白髪混じりの長い髪をひっつめた女性が弾くチェロが休んで、前に立っている中学生ぐらいの少年と少女が弾く二重奏のようなソロが付点の付いたリズムの音符を皮切りに始まった。
低音が休んでいる、ヴァイオリンとヴィオラだけのソロの伴奏を聴きながら、未乃梨は五人いる第一ヴァイオリンの先頭の席に座っている凛々子の音に耳を傾けた。
凛々子は低音の弦楽器が抜けて層が薄くなった合奏の中でも、普段のように動じずに周りのヴァイオリンやヴィオラを構えた少年少女たちを牽引しながらソロの二人の伴奏を弾いている。その、控えめにヴィブラートを掛けた音が、未乃梨の耳にしっかりと届いていた。
(……悔しいけど、凛々子さんのヴァイオリンの音って、とっても綺麗で、すごく安定してて、あんな風に伴奏に回るときもヴィブラートで音を整える余裕があって……私のフルートじゃ、あんなことは出来ないよ)
凛々子は時折、自分の前の譜面台に置かれた楽譜すら見ずに合奏を見回しながらヴァイオリンを弾いている。
指揮者を立てずに行っている弦楽合奏の中で、凛々子はアンサンブルに常に耳を澄ませていた。凛々子は、チェロやコントラバスといった低音のパートにも目を配っているのだった。
(凛々子さん、周りを気にかけながら弾いてる。ヴァイオリンパートから一番離れてる、休みの弦バスのことも見てるなんて……私だって、来年のコンクールは千鶴と――)
そこまで想いを巡らせて、未乃梨ははたと気付いたことがあった。
(……ちょっと待って? ヴァイオリンとかの小さい弦楽器があんなに十人ちょっと弾いているはずなのに、どうして凛々子さんの音だけが目立って聴こえてくるの?)
チェロの先頭に座る智花は、自分の弾くチェロパートも含めた低音が休みに入ると顔に出さずに苦虫を噛み潰した。
(後ろのチェロの坊やは萎縮してるし、凛々子以外のヴァイオリンのトゥッティとヴィオラは周りの顔色を伺って探りながら弾いてるし……ヴィオラに瑞香がいたら、こんなしょっぱい合奏にならないんだろうけど)
ヴィオラの席に座っているのは、普段ヴァイオリンを弾いている中学生や小学生らしく、レッスンの課題か何かでヴィオラを手にしている様子が智花には見てとれた。
どの演奏者も音程やリズムは正確に取れているのに、ヴァイオリンよりひと回り大きくて鳴らしやすいはずの楽器から、くすんだような音しか引き出せていない。
(後ろのコンバス二人みたくやんちゃに鳴らしてくれた方が後で修正がしやすいんだが……さて吉浦先生、どう指導なさるかね)
智花は、隣の席でチェロを手に何か思案をしている様子の吉浦を、ちらりと横目で見た。
「調和の霊感」第八番の最初の楽章が最後まで通し終わると、吉浦は舞台の上の全員を見回した。
「まず一点。コントラバスの江崎さん」
吉浦の厳しさを含んだ声に、千鶴はびしりと背中を叩かれたように姿勢を正した。
「は、はい」
間の抜けた声を出してしまった千鶴に、吉浦が眉ひとつ動かさずに続ける。
「元気良く弾くのは結構ですが、最初の小節だけは明らかに大き過ぎです。コントラバスは打楽器と同じで本来防音ができない楽器ですよ。それを忘れないように」
「……すみません」
千鶴が注意を受けている間、凛々子や智花や波多野以外の面々の間にほっと弛緩した空気が流れる。その瞬間、吉浦はもう一度舞台の上の面々に向けて、あくまで穏やかに言葉を掛けた。
「さて、コントラバス以外の皆さん。たった二人のコントラバスに十何人もいる上のパートが押し負けていては合奏が成り立ちません。皆さんは発表会のソロはそんな音で弾くわけではありませんよね? 合奏でも同じですよ」
吉浦の言葉に、凛々子と智花以外のヴァイオリンやヴィオラの少年や少女たちが顔を見合わせたり、俯いたりして戸惑いだした。智花の後ろでチェロを弾いていた少年に至っては、もじもじと自信なさげに吉浦の背中を見ている。
背中が丸まりかけた千鶴の二の腕を、波多野が小突いた。
「……江崎さん、さっきの悪くないってさ」
「……そうなんですか?」
「……吉浦先生がああ言う時はどっちかっていうと褒めてる時だよ。自信持って」
小声でフォローする波多野に、千鶴はコントラバスを構え直して背筋を伸ばす。その千鶴に、吉浦がもう一度振り向いた。今度は、その声は穏やかな響きを含んでいる。
「江崎さん、音量は抑えて、使う弓幅をもう少しタイトにして弾いてみてちょうだい。それでは、一楽章を最初からもう一度」
吉浦に促されて、凛々子や智花も、ソロの二人も、その他の面々も各々の楽器を構え直した。千鶴と波多野も、コントラバスを構え直す。
波多野は、小声で千鶴に告げた。
「……江崎さん、ちょっと仕掛けるよ。音量だけは吉浦先生に言われた通りで、ついてきて」
「……ええっ?」
千鶴は波多野の言葉が読めないまま、再び始まった「調和の霊感」第八番の最初の音に飛び込んでいった。
(続く)




