♯294
吉浦が千鶴の演奏に悪くない印象を持っていることに、内心で喜ぶ凛々子。
千鶴と一緒に演奏してから、どこかわだかまりの解けたような未乃梨。
二人の千鶴への想いはどこへ。
吉浦の厳しい表情の割には柔らかい声音に、凛々子はすっと安堵した。
(吉浦先生としては、千鶴さんは未熟でも見どころあり、ってところかしら。四月から教えてきた甲斐があったわ)
その千鶴は、決して長くはない「オンブラ・マイ・フ」を、舞台の上で堂々と弾き終えて、コントラバスを抱えて舞台袖へとはけていく。
自分の背丈を超える巨大な弦楽器を持ち上げる千鶴に寄り添うように舞台袖へと出ていく未乃梨にも、吉浦は目を向けていた。
「伴奏者も相性のいい相手を見つけて来たようだけれど。仙道さん、あの江崎さんっていう子のピアノ伴奏、どういう子なの?」
「ああ、小阪未乃梨さんですね。千鶴さんと同じ高校の子ですよ。一緒に吹奏楽部に入っていて、楽器はフルートです」
「ふむ。いい意味で、ピアノを習っている子らしくない伴奏だったわ。ブレスを取りながら演奏をするなんてこと、並のピアノの先生は教えないもの。ところで」
吉浦は凛々子に向き直る。
「仙道さん、あなたはここで油を売っていてもいいのかしら? 確か、発表会ではコンチェルトを弾くと聞いているけれど」
「ご心配なく。伴奏合わせはしっかり仕上げてありますので。今日は合奏の方に注力させて頂きます」
「そういう生意気な口振りの時は、あなたを信頼して良い時だったわね。全く」
吉浦は、動じる様子のない凛々子に苦虫を噛み潰したような笑顔を向けた。
舞台袖に戻った千鶴は、自分が不思議な感覚にとらわれていることに気付いた。
(……あれ? もう、演奏終わっちゃったんだ)
演奏中の記憶は千鶴には確かにあった。未乃梨のピアノの単音に合わせて、波多野に教わったばかりのフラジオレットを使った調弦をしたことも覚えている。
ピアノの前に座った未乃梨がブレスを取ってから前奏が始まって、それから自分がコントラバスを弾き始めたことも。
その部活で弾いているいつもの楽器とは全く違う、智花が借り出してくれたコントラバスの明らかに弓が弦に触れてから音が出るまでの反応の速さや余韻の豊かな音を持つ音も。
千鶴はすべて、しっかりと覚えていた。それが、時間にして十分にも満たない長さの間にあったこととは信じられないぐらい、濃い密度で起こっていたように千鶴には感じられる。
(色んなことがあったはずなのに……一瞬で終わっちゃったなあ)
入れ替わりに、自分どころか未乃梨よりも背の低い波多野がコントラバスを抱え上げて舞台に出て行くのを見送りながら、千鶴は放心したように袖から舞台を見た。
「千鶴、お疲れ様。本番もよろしくね」
不意に未乃梨から二の腕をつつかれて、千鶴はコントラバスを身体に立てかけたまま慌てて返事をした。
「あ、未乃梨!? ごめん、ぼんやりしてた」
「その様子だと、演奏中にすごく集中してたみたいね?」
「そう、なのかな」
未乃梨は両手を腰に当てると、「ま、悪いことじゃないんだけど」と笑う。
「私も、ピアノとかフルート発表会とか、吹奏楽部の本番とかでそういう感じになったこと、あるもの。演奏に入り込んじゃうみたいな」
「じゃあ、さっきの私もそんな感じだったのかな?」
「かもね。演奏中の千鶴、連合演奏会の時より凄かったよ? 堂々としてて、音がいつもより柔らかくて、しっかり響いてて」
未乃梨が、千鶴の顔を見上げながら微笑みかけてくる。コンクールや星月夜祭りの時のどこかわだかまりを感じる表情が、今の未乃梨からは消えていた。千鶴は、つい言葉に出してしまった。
「未乃梨、そんな風に可愛く笑うの、何か久し振りだね」
「もう。……これからもいっぱい見たい?」
上目遣いになる未乃梨から、千鶴は困ったように目を逸らして舞台に顔を向けた。舞台の上では、千鶴よりずっと身長の低い波多野が、高い椅子に腰掛けてコントラバスを弾いている。
憂うように揺らぐ拍子のピアノ伴奏に乗って、波多野は全身でコントラバスを弾いていた。千鶴にはまだ無理な、楽器越しに指を届かせる低音楽器とは思えない高音が濃厚に響く旋律に、千鶴は耳を奪われた。
「ちょっと、千鶴?」
未乃梨の溜め息に、千鶴は我に返った。
「あ……ごめん」
「私の前で他の女の子に見とれないでよね? ……あーあ、フルート持ってくれば良かったわ。吹きたくなっちゃった」
未乃梨の突拍子もない言葉に、千鶴は頭上に疑問符を浮かべる。
「フルートが吹きたくなったって……何でまた?」
「今、波多野さんがコントラバスで弾いてる曲、『シシリエンヌ』っていうフルートで良く吹く曲だよ。私、吹いたことある」
「そうなんだ? ……波多野さん、凄いなあ」
「千鶴もいつか、ああいう曲を弾けるようになったら、聴かせてね?」
「……出来るようになるかなあ?」
「そのためにも、凛々子さんとかにしっかり教わるのよ。そのための発表会でしょう?」
波多野が弾く「シシリエンヌ」を聴きながら、未乃梨は優しく微笑んだ。まだコントラバスを身体に立てかけたままの千鶴の二の腕に、未乃梨の手が絡まる。
「シシリエンヌ」の揺らぐ調べを聴きながら、千鶴は自分の右腕に寄り添う未乃梨に、頬がじわりと熱くなっていくのを感じていた。
(続く)




