♯293
そしてピアノ合わせの順番が回ってきて、本番と同じ舞台に上がる千鶴と未乃梨。
千鶴の音に、未乃梨は、そして凛々子他の面々は……。
未乃梨の複雑な気持ちに気付かないまま、千鶴は波多野の話に耳を傾けていた。
「……今、ステージで智花さんが合わせてる曲、バッハの『ヴィオラ・ダ・ガンバソナタ』っていうんだけど。前に、本条先生もやったって言ってたかな」
「てことは、コントラバスで?」
「うん。何かの小さいコンサートだったと思う」
「本条先生、ああいうチェロで弾くような曲もやっちゃうんだ。凄いなあ」
智花のチェロに合わせて千鶴の靴の爪先や肩に届きそうなストレートの黒髪が微かに揺れるのを見て、未乃梨は二人とは反対の方向を向いて溜め息をついた。
千鶴と波多野の口から出る楽器の名前は弦楽器ばかりで、知っている人名が聞こえても、それは弦楽器の演奏者しかいない。
(本条って先生の名前を聞いた途端、千鶴ったらあんなに楽しそうな顔しちゃって。……会ったことのあるプロの弦バス奏者なら、しょうがないのかも、しれないけど)
未乃梨はどこか納得のいかないまま、舞台袖で智花がチェロで弾いているバッハの音楽を聴き続ける。
チェロとピアノがたびたび全く別の動きをしつつも、端正でありながらどこか楽しげな雰囲気がにじみ出るその音楽に、未乃梨は不貞腐れそうになる自分が引き戻されていくようにも思えていた。
(……この曲みたいに長くもないし、難しいこともやらないけれど。せめて、今日は千鶴の伴奏はちゃんとやらなきゃ)
未乃梨は、舞台袖から食い入るように智花のチェロを聴いている千鶴や波多野の背中を、やっと顔を上げて見つめた。
智花の次が、千鶴と未乃梨の伴奏合わせの順番だった。未乃梨は袖からコントラバスを抱えて入ってくる千鶴に続いて舞台に入ると、ピアノに座ってAの鍵盤を弾いた。
調弦を始めた千鶴のコントラバスの音は、明らかに普段部活で聴くものと違っている。
(千鶴の弦バスの音、この舞台だとこんなに響くんだ!?)
調弦で先ほど波多野から教わった通りに千鶴が弾く、フラジオレットの高く薄い響きですら、春にそよ風が吹き込んだ部屋の暖かな空気のように舞台に漂っている。
(来年のコンクール、この千鶴の音と一緒に吹けるってこと……?)
未乃梨の中から、千鶴との距離が開いてしまったような整理のつかない寂しさが消えていく。
改めて、未乃梨はピアノの鍵盤の右端から二歩ほど先にコントラバスを構えて立っている千鶴を見た。
楽器を手にしたベージュの半袖のシャツにダークブラウンの長いフレアスカートの千鶴は後ろ姿が見えるばかりでも、どんな表情をしているのかは未乃梨には何故か分かってしまっていた。
(千鶴……今日は本番じゃないけど、まさか、全然緊張してないの?)
未乃梨は、「オンブラ・マイ・フ」の前奏を弾き出す前にもう一度千鶴を見た。肩に届きそうな長さのストレートの黒髪が揺れて、千鶴が未乃梨を一瞬だけ振り向く。
(頼もしいじゃない。そういう千鶴、もっと見たい……!)
それを切っ掛けに、未乃梨はフルートを吹く時のように、すうっとブレスを取ってから、「オンブラ・マイ・フ」の前奏を学校での練習以上に落ち着いて弾き始めた。
セシリアホールの後方の客席で、凛々子は千鶴がコントラバスで弾く「オンブラ・マイ・フ」を聴いていた。
学校の備品とは状態も楽器そのものの質も明らかに高いコントラバスで聴く千鶴の音は、ある意味で凛々子の想像と異なっていた。
木陰に佇む時の穏やかな心情を歌った原曲の歌詞そのもののような、安らいだ響きが千鶴の弓の運びから流れてくる。
(千鶴さん、こんな優しい音で演奏できるのね。……側に未乃梨さんがいるせいかしら)
未乃梨のピアノ伴奏も、千鶴の危なげない弓の運びに合わせてコントラバスの旋律をしっかり支えている。視線を合わせる回数は多くないものの、千鶴と未乃梨は互いの息づかいを感じ合って演奏をしているように凛々子には思えた。
決して難しくはない譜づらの曲を、二人は過度に慢心もしなければ萎縮した様子もなく演奏を続けていく。
凛々子に、小声で話しかける者があった。
「仙道さん。お隣、宜しいかしら」
「吉浦先生。お疲れ様です」
穏やかな、自分の母より年上の女性の声に、凛々子は立ち上がりかけて、その女性に手で制される。
「ピアノ合わせの最中ですよ。そのままで」
吉浦は凛々子を座らせると、その隣に音もなく腰を下ろした。
「あのコントラバスの子、あなたが学校で教えているとかいう子ね?」
「はい。吉浦先生、何かお気付きになりましたか?」
「欠点を挙げるだけなら、いくらでも。それより、まるで声楽のレッスン生を聴いているみたいなカンタービレだけれど、どんな風に教えたの?」
「コントラバスで弾く前に、原曲を歌詞付きで歌うように、と教えてあります」
悪びれることなく答える凛々子に、吉浦は舞台の上の千鶴に視線を据える。
「なるほど。ヴィブラートも掛けられないほど未熟でも、フレーズを歌うことはちゃんと出来ているのはそういうことかしら」
「千鶴さん、先生のお眼鏡にかないましたか?」
どこか自信ありげな凛々子に、吉浦は一見して渋い顔をした。その口角が、微かに上がる。
「あなたも生意気な口を利くわね、今に始まったことではないけれど。この分なら、合奏でも悪くはないかもしれないわね」
表向きは厳しい顔を崩さない吉浦の物言いに、凛々子は内心でいたずらっぽく笑った。
(続く)




