♯291
合奏練習の前のピアノ合わせの準備で、波多野からフラジオレットでのコントラバスの調弦方法を教わる千鶴。
また一つ未知のことを身につけていく千鶴に、未乃梨は……?
千鶴と未乃梨の伴奏合わせは前から三番目で、それまでの間に千鶴は舞台袖でコントラバスの準備を進めた。
「ここ、コンクールの地区大会の場所だったんだよね」
「来年、またここでやるかもね。その時は、一緒だからね?」
智花が運んできてくれたコントラバスを出しながら感慨深そうに舞台袖を見回す千鶴に、未乃梨が「ほら、用意しなきゃ」と自分のトートバッグからチューナーを取り出す。
「チューナーなら学校のを用意してるけど……未乃梨、持ってきたの?」
「ほら、早く。私たちの合わせ、結構前でしょ」
千鶴は未乃梨に急かされながら弓を締めた。その視界の端に、もう一台のコントラバスが入り込む。
舞台袖には、智花が借り出してきてくれた千鶴が使うコントラバスの他に、もう一台ケースに収まったコントラバスが寝かせてあった。
(誰のだろう? 私の他に、誰かコントラバスで出る人、いるのかな)
未乃梨が差し出すチューナーを見ながら調弦をしようとする千鶴に、誰かが忍び足でそっと近寄ってきた。
「江崎さん、調子はどう?」
聞き覚えのある声に、千鶴はすぐに振り向いた。
「あ! 確か波多野さん、ですよね? お久しぶりです」
「お二人はお祭りの時以来だね。今日の合奏、よろしくね」
千鶴どころか未乃梨や凛々子よりも背の低い、三つ編みを一本背中に垂らしたニットのカーディガンにラフなチノパンの少女が、千鶴に軽く会釈をしてから舞台袖に寝かせてあるもう一台のコントラバスを立ててケースから出した。
波多野は弓の毛を締めて松脂を塗ると、改めて調弦をしようとしている千鶴を見た。千鶴は、未乃梨が手にしているチューナーを見ながら開放弦を鳴らしている。波多野は少し考え込むと、自分のコントラバスを抱えて千鶴と未乃梨に近寄ってきた。
「江崎さん、フラジオで調弦する方法、まだ教わってないんだっけ?」
「フラジオ? 波多野さん、何ですか? それ」
チューナーを持っている未乃梨が、やや怪訝な顔をした。
「今から説明するよ。江崎さん、覚えといてね」
波多野は未乃梨の持っているチューナーで自分のコントラバスのA線を手早く合わせると、そのA線のとあるポジションを人差し指で指板に付くまで押さえずに、左手の人差し指で触りながら弓で弾いてみせた。
波多野のコントラバスのA線が、千鶴が弾いたことのない、吹奏楽部だとクラリネットやサックス辺りが吹いていそうな高さの、開放弦の太く低い響きとは異なる薄くて澄んだ音を鳴らす。千鶴と未乃梨は、顔を見合わせた。
「あれ? なんでコントラバスでこんな高い音が?」
「もうちょっと頑張ったら、フルートの音域に届くんじゃ?」
驚く二人に、波多野は説明を始める。
「A線のこのポジション、ちゃんと押さえたらすぐ上のD線の開放弦と同じ音が鳴るんだけど、ここを押さえないで、触るだけで弾くと『フラジオレット』って言って開放弦のAの二オクターブ上の倍音が鳴るんだよ。まずそれを合わせてみて」
波多野の説明を聞きながら、千鶴は早速自分が構えているコントラバスで全く同じようにA線を弾いた。未乃梨の持っているチューナーを見ながら、開放弦のAと、フラジオレットのAを交互に弾いて、おっかなびっくり合わせていく。
波多野は説明を続けた。
「まず最初に一緒に演奏するピアノとか、合奏だとオーボエとかヴァイオリンのAと、今のフラジオレットのAを合わせたら、次は同じポジションの小指で、D線を押さえずに触って弓で弾いてみて。A線が開放弦の半音五つ上、D線が七つ上で同じポジションなのは分かるよね?」
「ええっと……こう、かな?」
千鶴がD線を波多野の見様見真似で弾くと、先程とよく似た高さの音が鳴った。D線の音がややぶら下がっているように思えて、千鶴はD線のマシンヘッドを締めた。
A線とD線のフラジオレットを千鶴が何とか同じ音に合わせ終わるのを見届けると、波多野は「うん、その調子」と頷く。
「D線とA線以外にも、G線とD
線とか、A線とE線で同じポジションで同じ音が鳴るから、それを探して合わせていくの。隣同士の下の弦は開放弦から半音五つ上で上の弦は半音七つ上、って今は覚えておいてね」
波多野が言う場所を千鶴がコントラバスの指板の上の弦を触って弾くと、確かに隣同士の弦で似た高さの音が出るポイントが見つかった。それが全く同じ音になるように、千鶴はそれぞれの弦を弓で弾きながらコントラバスの頭に付いたマシンヘッドを回して音を整えていく。
もはやチューナーすら見ずに、ゆっくりと、しかし正しい音に調弦を合わせていく千鶴を、未乃梨は呆気に取られながら見た。
「……弦バスって、本当はこういう風にチューニングするんですね?」
「そうだよ。吹奏楽部の合奏でも、誰か他の楽器にAを吹いてもらってそれに合わせるとか、やってみても良いかもね」
「じゃあ、私がフルートのチューニングを終わったら、Aを吹いて千鶴に合わせてもらう、みたいな?」
「そう。オーケストラだったらほとんどオーボエのAだし、弦だけの合奏ならヴァイオリンのAだけど」
波多野の言葉に、未乃梨は頷いた。頷きながら、未乃梨はコンクールの地区大会で見覚えのある舞台袖に、初めて見聞きする方法で千鶴がコントラバスを調弦しているのを、複雑な面持ちで見つめる。
(……また、千鶴が私の知らないことを覚えちゃうの? それも、私と来たことがある場所で……?)
合わせが始まる前から、未乃梨は置きどころに困る気持ちを抱え込んだ。
(続く)




