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♯29

凛々子と未乃梨の間で、芽生え始めた千鶴の心の揺らぎ。

そして前へと進む、凛々子と未乃梨。

 微笑む凛々子(りりこ)を前に、千鶴(ちづる)は戸惑っていた。

 凛々子の大人びた一種の艶やかさや甘やかなヴァイオリンの音と、未乃梨(みのり)の可愛らしさや真っ直ぐなフルートの音が、千鶴の中で天秤に掛けられているようにさえ思えた。

「……私、まだ、わからないです。仙道(せんどう)先輩とも、未乃梨とも、演奏してみたいですし」

「別に、私は江崎(えざき)さんに答えを急がせるつもりはないわ。むしろ、楽器を始めたばかりのあなたには色んな経験をすべきだもの」

 凛々子の声音が、誘うような艶やかさから姉のような穏やかさに響きを変えた。

「今度の養護施設での演奏もそのひとつよ。吹奏楽部での本番と、今度の私たちとの演奏、どちらもあなたには必要よ」

「そう、だったんですか?」

「ええ。小阪(こさか)さんに『G線上のアリア』を吹いてもらおうと思ったのもそれ。ヴァイオリンとフルートでは、伴奏の合わせ方も違うんじゃないかしら?」

「あ……! そういえば……!」

 千鶴は、「主よ、人の望みの喜びよ」を凛々子や未乃梨と合わせた時を思い出して、言葉を詰まらせた。凛々子には弓の動きを見せつつ、未乃梨には管楽器を真似てブレスの動作をしてみせたのだった。

 凛々子は千鶴に、先ほどから親切な弦楽器奏者の先輩としての面と、大人びて艶やかな一人の少女としての面を交互に見せていた。そして、その凛々子の影は、千鶴の中にゆっくりと入り込み始めていた。


 その日の練習を゙終えた後で、千鶴と未乃梨は凛々子と校門まで一緒に歩いた。凛々子のあの誘うような艶やかな面は、影を潜めていた。

 凛々子は、沈むのが遅くなった春の夕陽を背に、手を繋いで歩く二人に振り返った。

「月曜日の合わせ、楽しみね」

「私以外はみんな弦楽器、なんですよね。上手く、行くかなぁ」

 不安そうな未乃梨に、千鶴は「大丈夫だよ」と励ました。

「中学の時にも、吹部で大勢の中でソロを吹いたりしてきたんでしょ?」

「千鶴、ありがと。頑張るね!」

 千鶴のひと言で、未乃梨の顔から不安の色が薄まった。それを見た凛々子は「まあ」と微笑んだ。

「小阪さん、江崎さんと一緒ならどこで演奏しても大丈夫そうね?」

「あ、あの、仙道先輩?」

 千鶴は急に顔を赤くして、長身を屈め気味にしてうつむいた。

「だって江崎さん、本当に小阪さんに好かれてるんですもの」

 未乃梨が恥ずかしがる千鶴の腕を抱え込みながら、凛々子に片目をつむってみせた。

「仙道先輩に、千鶴はあげませんからね」

「あらあら。本当に仲良しさんなのね」

 赤くなったままの千鶴にくっつく未乃梨を、凛々子は微笑ましく見つめた。


 帰宅してから、凛々子は自宅のリビングのカレンダーに予定を書き込んだ。

「これでよし、と」

 台所に立っていた凛々子の母が、カレンダーの五月のページを見て驚いてみせた。カレンダーには、凛々子の父母の予定や、凛々子のオーケストラの練習やヴァイオリンのレッスンの予定がそれぞれ違う色のペンで書き込まれている。

「凛々子、二年生になってからも忙しくなりそうね?」

「ちょっと楽しみなことも出来たしね。六月の演奏会も父さんに聴きに来てもらえるし」

「もう、反抗期が終わったと思ったらこれだもの。父さん、単身赴任引き受けなきゃ良かったって電話でぼやいてたわよ」

「母さん、それは言いっこなしでしょ?」

 凛々子は呆れたように笑う母のよそうポトフを受け取ると、テーブルに運んだ。

「母さん、ポトフのレシピ、教えてよ」

「いいけど、作る時は私と一緒じゃなきゃダメよ。あなた、お勉強とヴァイオリンはできてもお料理だけはからっきしなんだから」

「えーっ。父さんに食べさせたかったのに」

「あなたの演奏会だけで十分よ。しっかり練習もお稽古も頑張りなさいね。来年、受験なんだし」

「はーい」

 凛々子はサラダと取り箸をテーブルに並べると、食卓についた。ここ数ヶ月続いている母と二人きりの夕飯は、こんな風に上機嫌で過ごしていた。その理由のひとつに、最近知り合った長身のコントラバスの少女が加わったのは、凛々子にもわかっていた。


 未乃梨は、スマホに送られた楽譜のデータを家のパソコンで開くと、「うーん」と考え込んだ。

 自室に引っ込んでプリントアウトした楽譜を見ながら、未乃梨は「G線上のアリア」や「カノン」や「主よ、人の望みの喜びよ」の演奏を頭の中で組み立てようとした。既に、フルートをケースから出すには遅い時間だった。

 一番骨が折れそうなのは、やはり未乃梨が主旋律を任された「G線上のアリア」になりそうだった。

「こんな長い旋律、息がブレずに吹けるかなあ……」

 未乃梨は「G線上のアリア」の旋律を小声で歌いながら、指揮を振るように人差し指で拍子を取った。その拍子に合わせて、未乃梨の頭の中で低音の伴奏が鳴った。この曲の伴奏に、オクターブ違いの音を振り子のように行き来する低音の音型があったことを思い出して、未乃梨ははたと閃いたことがあった。

 未乃梨は、スマホで千鶴にメッセージを送った。


 ――明日の朝の練習でG線上のアリアやらない?

 ――分かった。寝坊しないでね

 ――大丈夫! また、駅でね


 手短にメッセージをやり取りすると、未乃梨は「よし!」と小さくガッツポーズをした。


(続く)

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