♯287
練習の後に凛々子から聴いてみるように勧められた曲と、未乃梨から持ちかけられた文化祭の一件。
両方に挟まれた千鶴は……?
練習の後で、千鶴は凛々子から何やらスケジュールを書かれたプリントを手渡された。
「後で千鶴さんのスマホにも同じものをファイルで送っておくけれど、発表会でやる合奏の練習のスケジュールよ。本番のピアノを使える日もあるから、未乃梨さんとも相談しておいて」
「合奏の曲って、ヴィヴァルディとチャイコフスキーですよね? しっかり練習してきます」
プリントを受け取る千鶴に、凛々子は満足そうに口角を上げる。
「たった二曲だし、そんなに長い時間を掛けることはないけれど、楽しみましょうね」
どこか楽しそうな凛々子に、千鶴もふと表情が緩む。
「凛々子さん、発表会が楽しみだったりします?」
「ええ。あなたのコントラバスとまた合わせられるんだもの。千鶴さんも?」
千鶴は、肩に届きそうなストレートの黒髪を揺らして笑う。
「楽しみっていうより、ソロも弦楽器だけの合奏も初めてだし、どうなるか分からない不安の方が大きいかも。でも、知らないことって、わくわくするっていうか」
千鶴の見せる明るい表情に、凛々子も心が軽やかに躍りそうな思いが、胸の奥に立ち昇るように感じた。
「それじゃ、もっとわくわくすること、私としていきましょうか?」
「もっとわくわくすることって……何ですか?」
頭の上に疑問符を浮かべる千鶴に、凛々子は思わせぶりに微笑む。
「今度の発表会でチャイコフスキーの『セレナード』の『ワルツ』をやる訳だけど。彼は、バレエ音楽でも有名なの」
「バレエ音楽って、あの、白いタイツとかスカートで踊るあのバレエですか?」
「そう。『白鳥の湖』、って知ってる?」
凛々子の口から出た曲名に、千鶴は目を見開いた。
「うーん……名前だけ聞いた事があるかも?」
「その『白鳥の湖』、音楽だけでもちょっと聴いてみてほしいの。千鶴さんなら気に入ってくれると思って、ね」
「動画サイトで探してみます。チャイコフスキーの『白鳥の湖』、ですね」
千鶴は、凛々子がバレエの音楽を勧めてきたことを不思議に思いつつ、発表会で演奏する同じ作曲者の「ワルツ」の旋律を思い浮かべて、凛々子と練習中に踊ったことを思い出す。千鶴の頬が、うっすらと熱を帯びた。
「……凛々子さん、私、ダンスってあんまり得意じゃないかも」
「あら、また私と踊るつもりだったのかしら?」
凛々子のからかいが、千鶴には何故か不快どころか楽しくすら感じる。自分の頬の温度が上がることすら、千鶴はいつの間にか受け入れていた。
音楽室では、昨日と同じように織田が桃花高校からアコースティックギターを持参して、高森と相談をしたり、未乃梨や他の吹奏楽部の部員を交えていくつか曲を合わせたりしていた。
黒い表紙の曲集に収められている中の、合わせた曲のひとつに未乃梨は妙に心を惹かれた。
「瑠衣さん、この『ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ』……っていうんですか? この曲、ちょっと好きかも」
織田は椅子に座ってギターに腕を預けたまま、「へぇ?」と興味深そうに顔を上げる。
「これ、ラブソングなんだよねえ。君のいる家に帰れたらなんて素敵だろう、って意味だったかな」
「え……! そうだったんですか!?」
フルートを手にしたまま口元を押さえて顔を赤らめる未乃梨に、アルトサックスを持って音楽室の机に腰掛けている高森が面白がるように水を向ける。
「いいねえ。その曲、江崎さん誘ってベース弾いて貰おうか?」
トランペットの中に溜まった水滴を抜いていた立野も、にやにやと未乃梨に笑いかける。
「小阪さん、あの弦バスの子、やっぱり気になるんだぁ? それじゃあ文化祭、誘わなきゃねえ?」
「……もう。高森先輩が変なこと言い出すから立野先輩まで」
何とか取り繕おうと、赤くなって打ち消そうとする未乃梨の肩を、ピアノに向かっていた植村がつついた。
「噂をすれば影、だね?」
「あ、千鶴……と凛々子さんも!?」
音楽室の戸口にヴァイオリンケースを肩から提げた凛々子を待たせて、千鶴がケースに納めたコントラバスを返しに来ていた。
「あ、先輩方、お疲れ様です。未乃梨も、お疲れ様」
「ねえ千鶴、ちょっと待って」
倉庫にコントラバスを戻しに行こうとする千鶴を、未乃梨が呼び止める。
「どうしたの?」
「あの、千鶴、発表会の後って結構暇でしょ? 文化祭、高森先輩とか瑠衣さんたちと、ジャズやらない?」
「……え? 何でまた?」
言葉足らずな未乃梨と、困惑する千鶴を見回すと、織田が肩をすくめた。
「いきなり言われても、千鶴ちゃんが困るだけだよ? 文化祭、紫ヶ丘の吹部で外とか廊下で少人数のグループで何か演奏しようかって話があるんだけど、千鶴ちゃん、どうかな?」
「……ジャズ、ですか? 私、瑠衣さんとこの桃花の人たちみたいには、ちょっと……」
改めて織田に説明を受けて、千鶴はますます困惑してしまう。
「ねえ、千鶴、だめ?」
上目遣いで自分を見てくる未乃梨と、音楽室の外の廊下で待っている凛々子を順繰りに見て、千鶴の背筋に居心地の悪い冷や汗が流れていった。
(続く)




