♯286
朝の練習が上手く行ったにも関わらず、表情の優れない未乃梨に困惑する千鶴。
そして、放課後の練習では……?
「オンブラ・マイ・フ」を弾き終えると、千鶴は未乃梨に複雑な気持ちでそっと目をやった。
(吹奏楽部に入ってからずっと、凛々子さんに色んなことを教わってるけど……やっぱり、未乃梨からしたら置いてかれたみたいに思っちゃうよね)
ピアノと合わせた「オンブラ・マイ・フ」は、今の千鶴にとってはかなり良い出来であったように思われた。
(たまたま聴いてた先輩たちも褒めてくれて、アドバイスも貰っちゃったけど……それって未乃梨からしたら、やっぱり……)
千鶴は、ピアノの前に立ち尽くす未乃梨に振り向いた。
「未乃梨、今の『オンブラ・マイ・フ』、どうだった?」
不意に意見を求められて、未乃梨は「え?」と驚いたように目を見開く。
「一学期より、良くなってる、かな……? 音も何か綺麗に残響が残ってるっていうか、その……」
もじもじと言葉を選ぶ未乃梨は、頬が少し染まった顔を少しうつむかせている。それを見た、トランペットの二年生が何やら譜面に書き物をしていた高森に尋ねる。
「ねえねえ高森さん、フルートの小阪さんって弦バスの江崎さんのこと、好きなの?」
「立野さん、聞くだけ野暮だよ。詮索しなさんな」
立野と呼ばれたサイドテールの髪のトランペットの二年生は、先ほど千鶴に「オンブラ・マイ・フ」をヴィブラートを掛けて聴かせたトロンボーンの二年生にもたしなめられていた。
「立野さあ、あんまり他人の色恋に首を突っ込みなさんな。そんなんだからアンタはモテないんでしょうが。ほら、教室行くよ」
「はーい。能田っち、古文の教科書忘れたから見せてー」
「はいはい」
能田はトロンボーンを片付けて倉庫に仕舞うと、先に楽器を片付けた立野にシニョンにまとめた髪をつつかれながら音楽室を出て行った。千鶴も、弓を緩めてコントラバスの弦に付いた松脂を拭き取り始める。
「いっけない。そろそろ、私たちも行かなきゃ」
「……うん」
未乃梨は、千鶴に何か含むところがあるように小さく頷く。
音楽室を出てから、未乃梨はうつむいたまま千鶴と手を繋いできた。表情がどこか沈んだ未乃梨に、千鶴は何か話しかけようとした。
「未乃梨、あのさ」
「……うん」
「朝の練習、付き合ってくれて、ありがとね」
「……うん」
未乃梨は俯いたまま、小さく頷くばかりだった。
「……あの、未乃梨、どうしたの?」
「……気にしないで。千鶴って、人気者だったんだね」
「そんなことないよ。先輩達だって、コントラバスのソロが珍しかっただけかもだし」
取り繕う千鶴に、未乃梨はうつむいたままはっきりと否定した。
「千鶴の弦バス、本当に良かったよ? そんなこと言わないで」
「……あ、ごめん」
気まずくなる空気になっても、千鶴と未乃梨は手をつないだまま教室へと急ぐのだった。
放課後の練習の後で、千鶴は練習を見に来た凛々子に相談を持ち掛けた。
「発表会の『オンブラ・マイ・フ』なんですけど、ヴィブラートを掛けてみたらって、吹部の先輩に勧められて」
凛々子は、形の良い顎に手を当てて数秒考え込んでから、口を開いた。
「うーん……ちょっとづらいのだけれど、イエスとも、ノーとも言えないわね」
全否定ではない凛々子の言葉に、千鶴は肩透かしを食らったように一瞬がっくりとかがみ込みそうになる。
「それは一体……?」
「色々理由はあるけれど、まとめるとコントラバスっていう楽器ならではの問題がほとんどかしら」
凛々子は、千鶴が身体に立てかけたままのコントラバスのG線を、人差し指でそっとはじいた。押さえていないコントラバスの一番細い弦が、たっぷり余韻を残して空き教室のなかに響いていく。
「コントラバスはこんなに響く楽器で、千鶴さんが今度発表会で弾く『オンブラ・マイ・フ』は低い音域を結構使うわよね。これでヴィブラートを掛けたら、お化け屋敷にいるみたいに感じてしまうかもしれないわ。だけど」
凛々子はコントラバスのG線の、楽器の胴体とネックが繋ぎ目あたりのポジションを正面から左手の親指で押さえると、もう一度右手の人差し指でそっとはじいてみせた。
千鶴が今までに弾いたことのないコントラバスの高い音が、何か別の楽器のように鳴ってすっと響きを鎮めていく。
「千鶴さんがこんな高い音を弾けるようになったときのために、今から勉強しておいたほうが良いかもしれないわね」
「高い音、ですか?」
「ええ。他にも、ソロ以外に合奏の場で必要になることもあるの。『あさがお園』の練習の時のこと、覚えてるかしら?」
「えっと……こんな風に練習で弾いてみた時のことですか?」
千鶴は、コントラバスのG線の適当な音を左手で押さえると、左手を何となく揺らしながら弾いた。左手の動きに合わせて、不器用に音が揺れて消えていく。
「そう。あの時はあなたもまだ技術が危なっかしいところがあったし、そもそもヴィブラートがふさわしくない曲だったからさせなかったけど、それが低い音域でも曲によっては合奏で必要になることもあるのよ」
凛々子はそこで言葉を切ると、千鶴の顔をじっと見上げた。
「そしてそれは、私には教えられないことでもあるわ。専門のコントラバス奏者じゃないと、ね」
「あの、それって……?」
不思議そうな顔の千鶴に、凛々子はゆっくりと頷く。
「言ったでしょう? 千鶴さんが望むなら、私はそういう場に連れて行ってあげるって」
凛々子は、不思議そうな千鶴の顔を見ながら、いつもの穏やかな微笑をしてみせた。
(続く)




