♯282
二学期最初の練習の後で、初めて顔を合わせる千鶴と未乃梨と凛々子。
それぞれの想いの向かう先は……。
二学期に入って、そろそろ傾くのが早まってきた午後の太陽がうっすらと紫ヶ丘高校の校舎を黄色がかった色に照らす時刻に差し掛かる頃、千鶴はやっとコントラバスをケースに収め終わるところだった。
凛々子はとっくにヴァイオリンの弓を緩めて松脂を払ってから、クロスで拭いた楽器本体ともどもケースに仕舞い終えており、スマホを見ながら千鶴を待っていた。
千鶴はケースに収まったコントラバスを起こすと凛々子に軽く頭を下げる。
「すみません。待たせちゃって」
「構わないわ。今日は千鶴さんの練習がちゃんと進んでるのが確認できたし、私が千鶴さんと一緒にいるのは、練習を見てあげるためだけではないもの」
凛々子はヴァイオリンのケースとスクールバッグを肩に提げると、千鶴に歩み寄る。
「コントラバス、音楽室に返すんでしょう? 一緒に行くわ」
「……あの、今日は音楽室で未乃梨が」
「個人練習に来てるのね? ちょうどいいわ。私も未乃梨さんに会いたかったし」
凛々子はコントラバスを抱えた千鶴に振り向くと、「さ、行きましょうか」と微笑みながら促した。
音楽室に現れた千鶴と凛々子を見て、未乃梨は「……あっ」と小さく声を出した。
「未乃梨、お疲れ様」
「千鶴、ちょっと待ってて。……凛々子さんも、お疲れ様です」
コントラバスを倉庫に仕舞いに行く千鶴と、廊下で待っている凛々子を避けるように目を伏せてフルートの片付けを続ける未乃梨に、アコースティックギターの弦をクロスで拭いていた織田が小首を傾げた。
「千鶴ちゃん、お疲れ。未乃梨ちゃん、どうしたの?」
「瑠衣、野暮なこと聞きなさんな。仙道さん、江崎さんの指導お疲れ様」
サックスを仕舞い終えていた高森が織田をたしなめると、凛々子に軽く手を上げて見せる。
「いいえ。吹奏楽部にお邪魔させてもらってるのは私の方ですもの」
凛々子は高森に会釈を返してから、自分に半分背を向けるようにして分解したフルートを掃除している未乃梨に声を掛けた。
「未乃梨さん、発表会の練習のことで色々話があるから、途中まで一緒に帰りましょう。昇降口で千鶴さんと待ってるわ」
凛々子はそう言い残すと、倉庫から戻った千鶴と一緒に昇降口に続く階段を降りて行った。あくまで穏やかな凛々子の言葉に、未乃梨はどきりと背筋を小さく震わせた。
「……それじゃ、高森先輩と瑠衣さん、お疲れ様でした」
未乃梨はフルートを急いで片付けると、千鶴と凛々子を早足で追った。
織田が、肩をすくめて嘆息する。
「あんな美人さんが千鶴ちゃんを教えてたの? こりゃあ未乃梨ちゃんもなかなか大変だねえ」
高森はピアスを着けた耳の端を掻いた。
「まあ、ある意味小阪さんを応援したくなっちゃうよね。……今日のセッションが気晴らしにでもなってくれればいいけど」
「それなんだけどさ。……紫ヶ丘の文化祭のセッション、未乃梨ちゃんと一緒に千鶴ちゃんも誘っちゃう? ジャズやるなら、ウッドベースは欲しいよねえ?」
ギターケースを担いだ織田に、高森は「うーん」と頭に手をやった。
「……考えてみるかな。江崎さんと小阪さん、上手く行くといいんだけど」
「あの美人さん、未乃梨ちゃんと仲悪いの?」
「……そうでもなさそうなんだよねえ。だから、難しいんだけど」
高森は、未乃梨が出ていった音楽室の扉目をやってから、やれやれとメッシュの入ったボブの髪を掻き上げた。
昇降口から恐る恐る出てきた未乃梨を、凛々子が出迎えた。
「待ってたわ。今度の発表会の練習、当日の午前中にリハーサルがあるから、覚えておいてね。詳しいことは、またメッセージ送っておくから」
穏やかな凛々子の言葉を聞きながら、未乃梨は凛々子の後ろで所在なさげに立ち尽くす千鶴に目をやった。話が終わってすぐ、未乃梨は凛々子に軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。……ところで千鶴」
顔を上げた未乃梨は、凛々子越しに千鶴の顔を見上げた。千鶴は、所在なさ気なようで、並の男の子を軽く越える長身をしゃんと伸ばしている。
未乃梨は、恐る恐る千鶴に尋ねた。
「ねえ、千鶴、お祭りからの帰りのこと、凛々子さんに話してくれたの?」
「……うん。未乃梨が言いだしたことなら、隠すわけにもいかないし、私は未乃梨の気持ちも凛々子さんの気持ちも、分かってるつもりだから」
「ありがと。……凛々子さん、そういう訳だから、私、千鶴のことは絶対に諦めません」
微かに、未乃梨の足元が震えるのを、凛々子は見た。それには触れずに、凛々子はあくまで穏やかな表情を崩さずに未乃梨の顔を正面から向き合う。
「未乃梨さん、あなたのそういうまっすぐなところ、大好きよ。ただ、私もそれ以上に千鶴さんの正直優しいところが好きで、千鶴さんの弾くコントラバスの音が好きなの」
「……分かってます」
もう一度、未乃梨の足元が微かに震えた。千鶴はそれに気づきつつ、未乃梨に頭を下げる。
「未乃梨、悩ませちゃってごめん。返事、絶対にするから、もう少し待ってほしい」
「……うん」
未乃梨は、高鳴る鼓動を抑えるように、みぞおちに手をやって、立ち尽くしたまま俯いた。
(続く)




