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♯280

未乃梨からのキスの一件で戸惑う千鶴を、考えすぎないように諭す凛々子は、千鶴にとあることを告げて……。

一方で、未乃梨は織田と高森にセッションを持ちかけられて……?

「唇じゃないなら、悩まなくていいっていうのは……」

 千鶴(ちづる)は、思わず右頬を凛々子(りりこ)から隠すように手をやった。星月夜(ほしづくよ)祭りの帰りの、未乃梨(みのり)の髪の甘酸っぱい香りや頬に受けた唇の潤んだ感触が、生々しく思い出されてくる。

 凛々子は、千鶴の腰掛けている空き教室の机の端に寄りかかると間近から千鶴の顔を見た。

「キスって、する場所で意味が変わるのよ。頬にだと、家族や友達同士ですることも珍しくないわね」

「そう、なんですか?」

「頬へのキスは挨拶でする人もいるぐらいだから、特別なことではないとも言えるわね」

 凛々子は、千鶴と未乃梨の一件を全く気にしていない様子で続ける。

「千鶴さん、何なら、私ともしてみる?」

「……っ!?」

 当たり前のことのように話す凛々子に、千鶴は息を呑んだ。すぐ近くにまで寄ってきている凛々子の顔は、至って真面目な表情のままで、それがかえって千鶴を戸惑わせる。

「私が、凛々子さんに……?」

「ええ。頬とかおでこぐらいだったら、私は千鶴さんにされてもいいけど」

 凛々子は、平静を保ったまま千鶴の顔を見上げてきた。その顔を見て、千鶴の胸の奥で何かが一度とくんと小さく跳ねる。

 千鶴は、凛々子の顔を恐る恐る見返した。

 凛々子の、少し癖のある艷やかな前髪から垣間見える白い額や、うっすら色付いた柔らかそうな肌の頬を間近に見て、千鶴は目を離せなくなっていた。

 それでもどこかためらう気持ちが残る千鶴の顔を、凛々子が改めて見上げる。

「私は、今でもいいわよ?」

「……凛々子さん、それじゃ」

「ええ。来て」

 凛々子に促されて、千鶴はためらいながら前髪越しに凛々子の額に閉じた唇を軽く当てた。

 千鶴は凛々子からすぐに離れようとした。唇が凛々子の額から離れる瞬間、凛々子の左手がその千鶴の右手を引き留める。

「おでこだけでおしまい、なの?」

「……それは、その……」

「では、次は私の番ね」

 凛々子は、寄り掛かっていた空き教室の机に座り直すと、千鶴の肩に両手を置いて、頬に唇を寄せた。千鶴の左半身に凛々子の身体が触れて、温かな重みが千鶴に伝わる。その凛々子の体温が、千鶴の戸惑いを融かし始めていた。

 凛々子の唇が千鶴の右頬に触れて、凛々子の緩くウェーブの掛かった長い黒髪の甘い香りが千鶴の身体に残る強張りを解いていく。

 凛々子が千鶴の左頬に唇をつけていたのはほんの数秒もなかっただろうか。それでも、凛々子は千鶴から唇を離しても、その肩から手を離さなかった。凛々子は、千鶴の肩に置いた両手を、千鶴の背中に回して、そっと抱きつく。

「私の唇には、決心がついたらいつでもしに来て。その代わり、その時は私と未乃梨さん、どちらを選ぶかはっきりさせてからにするのよ。いいわね」

 千鶴に抱きついたまま、凛々子は耳元で穏やかに話した。その言葉は、甘い感情を纏ってはいても、どこか芯のしっかりした響きを保っている。

「……はい」

 千鶴は、凛々子に抱きつかれたまま、短く頷くことしかできなかった。その千鶴に、凛々子は身体を預けるように身を寄せた。

「しばらく、このままでいさせて。……未乃梨さんに先を越されたかと思って、ちょっと心配になってしまったわ」

 凛々子のどこか穏やかで芯のあるアルトの声が、千鶴の耳元で再び囁かれた。空き教室の時計の分針がいくつか進むまで、千鶴は凛々子の温かな重みを受け止めた。


 自分のフルートを取り上げると、未乃梨は織田(おりた)に言われるがままに、音楽室の机に広げられた黒い表紙の曲集のページを見た。

(れい)、これなんか良くない? 『私を月に連れてって』とか」

「おー、いいねえ。結構有名だし、フルート入れるなら雰囲気合いそうだよね」

 未乃梨は織田と高森(たかもり)が開いたページを見て面食らった。

(ええっと……、FLY ME TO(フライ・ミー・トゥ) THE MOON(・ザ・ムーン)っていう曲のことなの? この曲集、日本語が書いてないし、楽譜も一段譜にコードネームが書いてあるだけ……?)

 ひたすら困惑しつつ、未乃梨はその一段譜をざっと見通した。さほど難しい動きはなさそうで、未乃梨のフルートの腕なら何なく頭から通せそうではある。

 織田がギターを構え直すと、高森と未乃梨に向き直る。

「じゃ、前にやった感じのイントロつけてやってみようか? 小阪(こさか)さん、初見でやりづらいかもだけど、あたしと玲が適当にやるから、玲のサックスが終わって四小節したら入ってきて。ヤバかったら玲がフォローするから」

「……ええっと……はい」

 困惑したままの未乃梨を他所に、織田がアコースティックギターでアルペジオを連ねる中を、高森がアルトサックスで部活の合奏やコンクールのとき以上に柔らかで滑らかなレガートでフレーズを紡いだ。

(サックスって、こんなフルートとかクラリネットみたいな柔らかい音が出るの!? しかも、こんなに綺麗なレガート……なんか、ヴァイオリンみたいな……?)

 吹奏楽部にない楽器と、今頃千鶴の練習を見ているであろうとある上級生を思い出しかけて、未乃梨は表情を凍らせかけた。

 その未乃梨を、アコースティックギターの折り目正しいコードが解きほぐしていく。高森のサックスが抜けたあとに残った織田のギターのシンプルで整った伴奏型が、妙に心地良い。

 未乃梨は、たった今楽譜を見せられたばかりの、「私を月に連れてって」を、織田の伴奏に何とか乗りながら吹き始めた。


(続く)

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