♯278
始業式後の個人練習で、未乃梨と凛々子のことを考えて練習の手が止まる千鶴。
一方で、未乃梨が個人練習をしている音楽室には、意外な来客が……?
千鶴の個人練習は、休み明けにしては特に問題もなく続いた。
ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番は、途中の気になる臨時記号を別にすればコントラバスが弾く出番は意外に少ないし、チャイコフスキーの「ワルツ」も厄介な部分がなくはないとはいえ、もたれないように動く中ぐらいのテンポを崩さなければついていけそうだ。
残る一曲の、ソロで弾く「オンブラ・マイ・フ」についても、ゆったりと「王様が昼寝をしているように」弾くことさえできれば、あとは何とかなりそうだ。
(どの曲もあとは合わせるだけ……か。あとはソロの伴奏、だけど……)
千鶴に不安なことがあるとすれば、「オンブラ・マイ・フ」の伴奏を未乃梨にしてもらうことだった。先日の星月夜祭りの帰りに、右頬に触れた未乃梨の唇の感触が、まだ記憶に新しい。
(未乃梨に、キスされたんだよね……その未乃梨に伴奏してもらって、ちゃんと弾けるかな)
千鶴は、少しだけ不安になった。未乃梨が自分に向けている想いの大きさも、そのどこか独占欲めいたわがままさも、高校に入ってから少しずつ見えてきている気がする。かといって、千鶴には未乃梨を無下に出来ないことも確かだった。
(少なくとも、未乃梨は大事な親友だし、私に「カノジョになりたい」って言ってたことはともかく、私に必要以上につきまとったりとかの変なことはしてないし……うーん)
空き教室の机に腰掛けて、左脚と左腰でコントラバスを支えたまま、千鶴は考えあぐねた。考えあぐねてしまう理由は、明らかだった。
(……もし、吹部に入ってすぐ、凛々子さんと知り合ってなかったら……私、高校入ってそのまま、未乃梨と付き合ってたのかな)
そう思わざるを得ないほど、今の千鶴にとって凛々子の存在もまた大きい。
そもそも、千鶴が今まで吹奏楽部で当たり前にコントラバスを練習をして、部活の内外で管弦が混ざった小さなアンサンブルなり、吹奏楽の合奏なりの本番を何とかこなせたことも凛々子に教わったことは無視できないのだった。
(……コントラバスを始めたばっかりの頃、練習を凛々子さんに見てもらってたことは未乃梨には言ってなかった訳で。凛々子さんには「あさがお園」の本番とか今度の発表会にも誘ってもらったし、オーケストラのこともちらっと話してたけど、未乃梨は未乃梨で来年のコンクールを私と出たいって言ってて……うーん)
ふと、空き教室の戸口をノックする音がした。
「誰だろ。……あ、お疲れ様です」
入ってきた姿を見て、何故か千鶴の顔や身体からすっと考え込んでいる時に特有の力みが解けた気がした。
入ってきたのは、ワインレッドのヴァイオリンケースとスクールバッグを肩から提げた、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の、千鶴よく知るひとつ歳上の少女、凛々子だった。
「お疲れ様。練習の休憩中だったかしら?」
「……そんなとこ、です」
凛々子はヴァイオリンケースとスクールバッグを空き教室の机に置くと千鶴が譜面台に広げている楽譜を遠目に見た。以前に自分が千鶴に出した音階の課題がそこにあるのを見て、凛々子は軽く頷く。
「スケールの課題、廊下まで聴こえてたけど、いい感じに弾けてたわよ? 何か、気になるところでもあったの?」
「……課題と今度の発表会でやる曲はまあ、何とか」
「ということは、コントラバスの練習以外で悩むことでもあったの?」
凛々子は、千鶴の瞳をじっと見た。千鶴は、視線を凛々子から逸らすことができなかった。
(……凛々子さんには、隠せないよね。やっぱり、言うしかないか)
それほど部員が残っていない音楽室で、未乃梨はフルートを置いて伸びをした。
(うーん……しばらく合奏はないし、基礎練習をあと何回かやったら千鶴に声を掛けて帰ろうかな)
そんな未乃梨の意識の外から、何やら賑やかに話す声と足音が聞こえてくる。話しているのは、未乃梨には聞き覚えのある声だった。
音楽室の扉を開けて入ってきた人物の片方を見て、未乃梨は目を丸くした。
「――そういう訳だからさ、瑠衣も時間空いてたらどうかなって」
「紫ヶ丘の文化祭、土日だったっけ。それなら――あ、未乃梨ちゃんじゃん? おひさ」
音楽室に入って来たのは、サックスの高森と、桃花高校の織田だった。織田は桃花高校の夏服らしい半袖のセーラーブラウスに、ギターケースを肩に担いでいる。
「あれ? 高森先輩はともかく、瑠衣さんがどうして?」
「ああ、玲に誘われてさ。ちょっと紫ヶ丘でセッションでも、ってね」
そう言いながら、織田は背負っているギターのソフトケースを開けた。中からアコースティックギターとピックを取り出して、軽くチューニングを確かめる。
高森も、自分のサックスのケースからアルトサックスを取り出して、ストラップとマウスピースを取り付けると軽く音出しをしてから、何やら黒い表紙の厚い曲集のようなものを取り出した。
「んじゃ、一丁やってみますか?」
「二学期に入ったし、秋らしいのをやっちゃおうか。これ」
高森に水を向けられて、織田は黒い表紙の曲集をギターを抱えたまま開くと、とあるページを指差した。
そこには、「AUTUMN LEAVES」というタイトルがページのトップに書かれていた。
(続く)




