♯27
凛々子からの演奏の依頼に戸惑いつつも、引き受けることにした千鶴と未乃梨。
そんな二人に、凛々子は興味津々なようで……?
未乃梨は、凛々子が机に広げた三枚の楽譜に目を通すと、凛々子から「どうかしら?」と問われた。
「これぐらいなら、私は出来ます。でも、千鶴は初心者だし……」
未乃梨は千鶴を横目で見た。千鶴は「うーん」と考え込んだ。
「こっちの、カノン、って読むんですか? これは同じことがずっと続いてるし、大丈夫かなあ。もう一曲は仙道先輩とか未乃梨とやってるし、あと一曲がなんとかなれば大丈夫です」
未乃梨は意外そうに少し目を見開いて、凛々子はどこか満足そうに小さく口角を上げた。
「頼もしいわね。では、カノンと『主よ、人の望みの喜びよ』はなんとかなるとして、残り一曲はまた私が江崎さんに教えるわ」
最後に残った一曲は、四段で書かれた楽譜で、これもさほど長くはなさそうだった。
「これ、一番上の第一ヴァイオリンのパートを小阪さんに吹いてもらいたいのだけれど、どうかしら?」
「これをですか? これってもしかして、G線上のアリア? ……息、持つかなぁ」
管楽器を想定して書かれていない、小節をまたいで長く繋がったフレーズに、未乃梨は明らかにたじろいでいた。凛々子はそんな未乃梨を心配する風でもなく、話を進めた。
「これよりもっと大変なフルートの曲なんて山ほどあるし、小阪さんなら大丈夫よ。あと、この三曲の本番はゴールデンウィークの最終日だから、それまでに仕上げてね。何か質問は?」
「仙道先輩、他に来る先輩のオーケストラの人と顔合わせはいつするんですか?」
手を挙げた未乃梨に、凛々子は間をおかず答えた。
「来週の月曜日の放課後にうちの高校に来てもらって、それが最初の全員での練習になります。ヴィオラとチェロが一人ずつ来るから、そのつもりでね」
「本番の場所はどこなんですか? コントラバスはどうするんですか?」
続いて質問した千鶴にも、凛々子は歯切れ良く答えた。
「演奏する場所は小学生ぐらいの子たちが暮らしてる市の養護施設で、うちの学校からそう遠くないところよ。コントラバスは本番だけうちのオケの楽器を用意するから、江崎さんは学校から弓と松脂だけ借り出しておいてね」
凛々子はそこまで説明すると、落ち着いている千鶴と「G線上のアリア」の楽譜を見て眉をしかめそうになっている未乃梨を見た。
未乃梨は顔を上げると、千鶴の手を握った。
「千鶴、明日の朝から、また練習付き合ってくれるわよね!? 今度こそ寝坊しないから、お願い!」
「分かった。早めに駅に行って待ってるね」
「寝坊? そういえば、今日の小阪さんの髪型、急いで寝癖隠ししてきたの?」
首を傾げた凛々子の言葉に、未乃梨は一瞬、千鶴の手を握ったまま固まると、右肩に下ろすようにリボンでまとめているサイドテールの髪を手で隠した。
「け、今朝大変だったんですっ! 右側だけ何か爆発したみたいになっちゃって!」
「あら、そのヘアアレンジ可愛いわよ? 私もちょっと真似してみたいぐらいなのに」
未乃梨は意地を張ったように声を上げた。
「ダメです。仙道先輩は千鶴の前でいつもの下ろした髪型以外しないで下さい! 元から綺麗な髪で羨ましいのに!」
「あの、未乃梨? 大きな声出さないで、ね?」
千鶴になだめられて、未乃梨はやっと落ち着いた。凛々子は困り笑いをしながら、静かになった未乃梨に告げた。
「それじゃ、楽譜のデータは二人のスマホに送っておくから、小阪さん、連絡先を教えてもらえるかしら?」
「こっちにお願いします。家でプリントアウトしておきますね」
未乃梨が差し出したスマホを見ながら、凛々子がアドレスと番号を登録すると、確認のために空のメッセージを送って、未乃梨のスマホを鳴らした。
「それでは二人とも、宜しくお願いしますね」
凛々子は改めて、千鶴と未乃梨に向かって穏やかに微笑んだ。
フルートのパート練習に戻った未乃梨を見送ると、凛々子は千鶴にシャープ二つのニ長調の音階を教えた。訪問演奏の曲のうち「カノン」と「G線上のアリア」の音階だったが、千鶴が曲で使う範囲の指遣いを覚えるのにそう時間はかからなかった。
千鶴がコントラバスのパートを譜読みし終わってから、凛々子は休憩を入れた。ヴァイオリンを机に置いて軽く伸びをする凛々子に、何故か千鶴は見とれていた。
「そういえば」と、凛々子は手近な教室の机に腰掛けると、軽く脚を組んだ。スカートからすらりと伸びた紺のハイソックスを履いた細めの脚に、つい千鶴の目が行ってしまう。上履きの爪先は、千鶴の方を向いていた。
「小阪さんとは知り合って長いのかしら?」
「中学から一緒です。その頃から、よく遊びにでかけたり、登下校も一緒だったりして」
「そうなのね。高森さんが言ってたわ。小阪さん、江崎さんのカノジョみたい、って」
「未乃梨とは、そういうのじゃなくて、普通に、友達っていうか……」
千鶴は、言えば言うほど何かを取り繕うような感じになってしまうことに、言葉を詰まらせた。
「つまり、小阪さんはカノジョじゃない、ってことかしら?」
穏やかに微笑む凛々子から、千鶴は目を離せなくなっていた。組んでいる脚や、リラックスしている座る姿勢や、緩くウェーブの掛かった長い黒髪にも、目が行ってしまう。いたずらっぽい笑顔も、千鶴の視線を捉える原因のひとつだった。
「そ、それは、その……」
千鶴は、昨日の別れ際に自分に抱きついてきた未乃梨の感触を思い出して、再び言葉を詰まらせた。
(続く)




