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♯269

音楽室で植村のピアノを交えて始まった突発的な合わせと、夏の終わりの予定の話。

どうやら、千鶴は夏休みの終盤を賑やかに過ごすことになりそうで……。

 バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を、未乃梨(みのり)は内心首を傾げながら通し終えた。

(うーん? 私、結局飛び出し気味で合わせちゃった? 前に「あさがお園」の本番で凛々子さんたちと吹いた時は、そんなことなかったのに?)

 未乃梨の疑問をよそに、ピアノを弾いた植村(うえむら)が、コントラバスを身体に立てかけている千鶴(ちづる)や顎に挟んでいたヴァイオリンを下ろした凛々子(りりこ)に、満足そうに笑顔を向けている。

「いやー、ピアノで弦楽器と合わせるのは初めてだったけど、上手くいくもんだねぇ」

 千鶴も、ピアノの前に座る植村に目を丸くした。

「植村先輩も、ピアノすっごく綺麗でした」

「合唱とか管楽器と違って、すぐ音が出るからねえ。弓を先読みするのはなかなか難しかったけど」

 ヴァイオリンを手にした凛々子が、植村から未乃梨に視線を移す。その表情は裏のない明るさがあった。

「未乃梨さんも、先に進む感じで良かったわよ。バロックは踊れなきゃね」

「え? 私、急いじゃってませんでした?」

 植村が、「そんなことないよ」と未乃梨に手を振ってみせる。

「むしろ、私が小阪(こさか)さんとかより遅れ気味になってたね。三人のテンポが正解だよ。江崎(えざき)さんも、弦バスを始めたばっかりなのにちゃんとアンサンブルを引っ張れてたしね」

 凛々子と植村の言葉に、未乃梨は先ほどまでわだかまっていた不機嫌さがせせらぎに流される砂のように消えていった。千鶴が植村から褒められたことも、未乃梨の心を軽くした。

「千鶴、すごいじゃない? 植村先輩にも褒められるなんて」

「先輩がゆっくり目に弾いてくれたから、合わせやすかったです。私も、今のバッハ、ちょっと記憶が怪しかったし」

 千鶴は、そろそろストレートの黒髪が肩に届きそうな頭を搔いた。その千鶴に、凛々子がくすりと微笑する。

「でも、未乃梨さんの前でちゃんと弾けたのだし、良かったのではなくて?」

「あ、……それは、その」

 千鶴は顔をやや紅潮させてはにかんだ。

 植村が、千鶴を見て「おやおや」口角を上げつつ、凛々子と未乃梨を見回す。

「んじゃ、今日は他に誰も来そうにないし、高音も低音もピアノも揃ってるから、色々合わせて遊んじゃおうか?」

「良いわね、やりましょう」

 凛々子が頷いて、千鶴がコントラバスを抱えてピアノの近くに歩み寄る。未乃梨は、フルートを置いて譜面台を取りに倉庫に入っていった。

(植村先輩はともかく、凛々子さんに来てもらって良かったかも。……千鶴のことはともかく、凛々子さんのヴァイオリンって合わせてて楽しいのよね。ちょっと悔しいけど)

 突発的に始まった合わせが、未乃梨には面白くなっていた。


 フルートとヴァイオリンとコントラバスとピアノでの合わせが、和気あいあいと始まった。

 コンクールで未乃梨たちが演奏した「ドリー組曲」を、フルート以外はピアノの上に置かれた原曲の楽譜を見ながら、初見で適当にフレーズを拾いながら演奏していった。その場で音楽を組み立てていくのは、まだ音楽の経験浅い千鶴には未体験の楽しさがある。

「子守唄」では、植村のピアノと凛々子の静かな和音の上で歌う未乃梨のフルートを、千鶴は間近で味わった。

(未乃梨、こんな風にコンクールで吹いてたのかな)

 千鶴はフルートを吹く未乃梨に見惚れつつ、凛々子のヴァイオリンの弓と、気負わずに演奏するその横顔を見逃せなかった。

 凛々子のヴァイオリンは未乃梨のフルートの旋律と重なったかと思えば、伴奏に回って植村のピアノと息を合わせたりと立ち回りを何度か変えていて、千鶴はその挙動から目を離せない。むしろ、弾いている途中で視線を合わせた回数は未乃梨とより凛々子との方が多いだろうか。

(凛々子さん、オーケストラのときみたいに周りを見てまとめてる。植村先輩とは初対面なのに……凄いや)

 それでも、千鶴がコントラバスで弾く低音が和音の下敷きになって、それぞれに違う楽器の他の三人の音と溶け合っていくのは、「あさがお園」の時とは少しだけ似た楽しさがあった。

 未乃梨は、自分のフルートの音が、千鶴がコントラバスで弾く聴き覚えのある低音のフレーズに支えられて進んでいくのが、千鶴の長くて温かい腕に抱きとめられているようにも思えて、何とも心地良く感じられた。

(来年、コンクールでこんな風に千鶴と一緒に演奏したいな)

 その一方で、自分のフルートの音と同じ高さで、時にオクターブ下で重なる凛々子のヴァイオリンには、複雑な気持ちにならざるを得なかった。

 凛々子が、植村はともかく千鶴と何度も視線を合わせていることも、千鶴の温かいコントラバスの低音が凛々子の瑞々しいヴァイオリンの音が自分のフルートの音以上に響きを馴ませていることも、未乃梨には少し引っかかってしまう。

(……凛々子さんのヴァイオリンは素敵だし、千鶴が凛々子さんのおかげで上達してるのは嬉しいけど、どうしても割り切れないよ)

 未乃梨は、フルートを吹きながら、凛々子を正視できなかった。

 凛々子は、千鶴と未乃梨と植村を当分に見ながら、全く気負わずにヴァイオリンを弾いた。

(未乃梨さん、また腕を上げたわね。フルートでここまで高音息を柔らかく吹けるの、なかなか出来ないわよ。植村さんも、さっきのバッハより合わせ方が丁寧になってる……私たちの演奏の癖をつかんでくれたのね)

 凛々子のアイコンタクトに、未乃梨が正面から見てくることがない一方で、千鶴は凛々子の挙動を見逃すまいと視線を何度も合わせてくる。植村も、ピアノを弾きながら三人の動向をしっかり捉えていた。

(……未乃梨さん、少しは私を見てくれればいいのに。千鶴さん、音色も演奏する姿も、本当にコントラバス奏者らしくなってきたわね)

 いつしか千鶴のコントラバスを頼りに和音や拍節を見通す自分に気付いて、凛々子は内心で苦笑した。

(……これでは、ますます千鶴さんに私の側にいて欲しくなってしまうわね。舞台の上でも、下でも)

 植村は、フルートヴァイオリンとコントラバスという吹奏楽部ではまず見かけな楽器の取り合わせに、すっかり慣れてしまっていた。

江崎(えざき)さんの弦バスも結構良い感じだけど、仙道(せんどう)さんのヴァイオリンも只者じゃないな。……ピアノの調律よりずっと綺麗な音程を取ってる。合唱なんかで歌の凄く上手い人がいる時に伴奏してるみたい)

 その凛々子が緩くウェーブの掛かった背中まである長い黒髪を小さく優雅に揺らしながらヴァイオリンを弾く姿は、コントラバスを弾く並の高校生の男子より遥かに背の高い背中に届きつつあるストレートの黒髪の千鶴や、少女らしい体付きで明るめの色のセミロングの髪をリボンでまとめたフルートを吹いている未乃梨と一緒に演奏しているのが絵になっている。

(……私は江崎さんには仙道さんが合ってると思ってるけど、さて、どうなるやら)

 植村は、高森(たかもり)との賭けを思い出しつつ、ピアノの鍵盤に向かっていた。


「子守唄」を何度か合わせ終わると、四人は軽く休憩することにした。凛々子がヴァイオリンを音楽室の机に置くと、軽く伸びをする。

「たまにはこういうアンサンブルで遊ぶのも楽しいわね。植村さんのピアノも、素敵だったわ」

「美人さんに褒められると嬉しくなっちゃうね。あたしもヴァイオリンと合わせるのは初めてだけど、こんなに楽しいとはね……ん?」

 ピアノの譜面台に置いた植村のスマホが、画面を音もなく点滅させた。

「ありゃ、メッセージ。……お、来てくれるんだ」

 植村はメッセージを確かめて何か返信すると、嬉しそうな顔でスマホをピアノの譜面台に戻す。

「何かあったんですか?」

 小首を傾げる千鶴に、植村はことも無く答える。

「ああ、あたしの彼氏からだよ。来週の終わりの星月夜(ほしづくよ)祭り、一緒に行ってくれるってさ」

「あら、奇遇ね? 向こうで植村さんを見かけても、お邪魔しないようにしておくわね」

 音楽室の机に腰掛けて休む凛々子に、植村は「へえ?」と意外そうな顔をした。

仙道(せんどう)さんも誰か誘うの?」

「ええ。千鶴さんと未乃梨さんと、あとはうちのオケの知り合いね。ところで植村さん、お付き合いしてる人がいるの?」

 植村は「ああ、言ってなかったっけ」と、千鶴と未乃梨も見ながら答える。

「ちょっと、うちの高校の三年とね。受験前に気晴らししたいってさ。あたしも気合い入れて浴衣でも着ていこうかな」

 植村の言葉に、未乃梨ははっとして、凛々子は面白そうに笑う。

「千鶴、私も浴衣着よっかな。……どう?」

「それじゃ、私も浴衣にしようかしら。千鶴さん、見たい?」

 思わせぶり千鶴に近付こうとする凛々子の前を、未乃梨が慌てて遮った。

「ちょっと凛々子さん!? そうやってまた千鶴に近付こうとして」

「あら。未乃梨さん、何のことかしら?」

 ムキになる未乃梨ととぼけた振りをする凛々子を前に、呆れたように植村は千鶴の顔をしげしげと見上げる。

江崎(えざき)さん、随分女の子にモテるんだね?」

 千鶴は、ごまかすように「あはは……」と力無く笑ってみせた。

「……あの、未乃梨、怖い顔しないでね? 凛々子さんも、未乃梨をあまり挑発しないで下さいね?」

 取りなそうとする千鶴を、未乃梨は睨みつけて、凛々子はあくまで穏やかに口角を上げた。

「千鶴、私は落ち着いてられないけど?」

「お祭り、未乃梨さんと一緒に歩いてるだけで楽しくなりそうね?」

 二人の少女に挟まれる様子を面白そうに見る植村に、千鶴は助けすら求められずに、ただただ冷や汗を流していた。


(続く)

 




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