♯268
自由練習で登校すると、凛々子と顔を合わせた千鶴と未乃梨。凛々子に見せつけるように未乃梨は千鶴と腕を組むも、凛々子はまるで気にしていないようで……?
音楽室に向かいながら、千鶴はそのコンクールからの帰りのことを思い出しつつ、ただひたすら困惑していた。
「あのー……未乃梨?」
「何よ。別に、私が千鶴とくっついてたっていいでしょ」
むくれる未乃梨は、千鶴と凛々子の間に割って入る形で、千鶴の右腕にすがるように自分の左腕を絡ませている。
その様子がかえって微笑ましく映ったのか、凛々子は「まあ」と微笑んだ。
「じゃ、私はこっちかしら」
「ちょ、凛々子さん? 何を」
戸惑う未乃梨の空いた右手を、凛々子の左手が取る。凛々子の長い指に手を優しく絡め取られて、未乃梨は頬が熱く染まるのを感じた。
「あの……恥ずかしいんですけど」
「そう? 私の他には千鶴さんしか見ていないのに?」
「……そう、ですけど」
未乃梨は凛々子に右手を取られたまま、左側で自分が右腕に取り付いている千鶴の顔を見上げた。千鶴はまっすぐ前を向いたまま、気まずそうな表情で歩いている。その頬も、さっき未乃梨が凛々子に手を取られた時のように熱を帯びているのか、少し赤く染まっていた。
「あ……千鶴、ごめん」
「いいよ。気にしないで」
誰もいないさほど長くない音楽室までの廊下を、千鶴と未乃梨と凛々子は手を繋いだまま足を進めた。
音楽室には、朝早い時間なのもあってかまだ誰も来ていなかった。学期中ならやっと予鈴が鳴る時間なのもあって、音楽室は広々と空いている。
千鶴は倉庫からコントラバスを出すと、なんとはなしにケースを開けて準備を始めた。音楽室から離れた空き教室に行くのは、今日の千鶴にははばかられた。
(私が空き教室に行ったら、凛々子さんもついてきて未乃梨の見てないところで二人きりになっちゃうし……)
コントラバスの弓を締める千鶴の後ろでは、凛々子が誰に気兼ねするでもなくヴァイオリンケースを開けている。音叉を膝に当ててヴァイオリンを手早く調弦すると、凛々子はヴァイオリンを弾き出した。
凛々子の弾く旋律に、千鶴と未乃梨は聴き覚えがあった。泉が湧いて流れが生まれるような三連符の旋律は、二人が凛々子のヴァイオリンと一学期に何度も合わせた曲に間違いない。
(これ、「主よ、人の望みの喜びよ」だ……)
千鶴は、思わずすっかり覚えている低音のパートを凛々子のヴァイオリンに合わせてコントラバスで弾き出した。未乃梨は、どこか戸惑った様子でフルートを手にしたまま二人を見た。
千鶴と凛々子が三小節ほど合わせた辺りで、音楽室の扉が開いた。入ってきたのはユーフォニアムの植村で、手には大判の楽譜を何冊か手にしている。
千鶴はコントラバスを弾く手を止めると、植村に一礼する。凛々子も、ヴァイオリンを弾く弓を止めた。
「植村先輩、おはようございます」
「ああ、合わせてたんなら続けてて良かったのに。あ、仙道さんだっけ。うちの後輩が世話になってます」
植村が凛々子に軽く前下がりのボブの頭を下げると、未乃梨に尋ねた。
「バッハやってたけど、何か本番でもあるの?」
「いえ、たまたま凛々子さんが一人で弾いてて、千鶴が合わせてただけで」
植村は千鶴と凛々子の顔を当分に見ると、口角を上げてピアノの前に座る。
「そうなんだ。じゃ、私もピアノで混ぜてもらおうかな。今のバッハ、暗譜してるし」
「え? 植村先輩?」
戸惑う未乃梨をよそに、凛々子もヴァイオリンを顎に挟んだままにっこりと頷いた。
「あら。それじゃ、Aを下さるかしら」
「ほいきた。どうぞ」
植村がピアノのAの鍵盤をオクターブで軽く押さえて、凛々子に目配せする。凛々子のAを聴いて、千鶴もコントラバスの調弦を確かめた。
凛々子と千鶴が調弦をしている間、植村は未乃梨を振り向く。
「んじゃ、折角だし小阪さんも。楽譜ならあるからさ」
植村はペダルを踏んで打鍵したピアノのAを伸ばすと、持ってきていた楽譜から「BWV147」という未乃梨にも見覚えのある番号がページに見える楽譜を一冊取り出した。
開いたページを見ると「主よ、人の望みの喜びよ」の合唱の楽譜らしく、アルファベットの歌詞が振られた何段かの楽譜の下にピアノの二段譜が書かれている。
「植村先輩、これは?」
「ああ、合唱部が遊びでちょくちょくクラシックの有名な曲を歌っててね。あたしもピアノで弾いたことがあるから、時々一緒に合わせたりしてんの。さ、やってみよっか」
「あ、はい」
未乃梨は急に引っ張られたようにピアノのAに合わせて自分のフルートの音を確かめた。未乃梨のチューニングを見届けると、凛々子と植村が互いを見合って、バッハの音楽が始まった。
植村のピアノを交えた「主よ、人の望みの喜びよ」は、「あさがお園」での本番にくらべるとやや遅めのテンポで始まった。千鶴は、植村のピアノに合わせながら、四人分の音を全身を耳にして聴き込む。
(この曲、ピアノが入るとこんな風に音が混ざるんだ?)
植村の弾くピアノは、ハンマーで弦を叩いて音を出す楽器とは思えないほど柔らかい音がした。以前に瑞香のヴィオラや智花のチェロと合わせたのと全く同じ感覚で、千鶴はコントラバスを弾いた。
一方で、未乃梨は植村がピアノの上に出した楽譜を見てフルートを吹きながら、微かな違和感を覚えていた。自分のテンポがやや他の三人より速くなっているらしく、フルートの音がどこかで飛び出し気味になる。
(あれ? テンポを作ってるのは植村先輩なのに、どうして千鶴と凛々子さんは綺麗に合ってるの?)
未乃梨は、内心首を傾げながら三人の音に恐る恐る乗っかろうとした。
(続く)




