♯267
コンクール明けの自由練習に、学校にヴァイオリン持参で現れた凛々子。
この夏最後の思い出になりそうな祭りに凛々子から千鶴と一緒に誘われて、未乃梨は複雑なようで……?
コンクールの県大会が終わって夏休みも終盤に入ると、紫ヶ丘高校の吹奏楽部はほっと一息ついたような、緊張のほどけた空気に包まれた。
吹奏楽部の練習は、二学期が始まるまで自由参加の平日午前中の個人練習のみとなり、時間に余裕のある部員がちらほらと姿を見せるのみとなった。
盆休みの時期に夏休みの課題を大部分片付けていた千鶴は、吹奏楽部の自由練習に姿を見せたうちの一人だった。
コンクールの後の最初自由練習の日の朝、紫ヶ丘高校の最寄り駅で千鶴に背後からちょっぴり不機嫌そうなソプラノの声が投げかけられた。
「……おはよう。いい天気ね」
「あ、未乃梨。……おはよう」
千鶴は困ったような顔で、肩にスクールバッグいつものフルートケースを提げた夏の制服姿の未乃梨をなだめる。その千鶴に、今度は真逆の方向から穏やかなアルトの声の挨拶が聞こえてきた。
「千鶴さんに未乃梨さん、おはよう」
未乃梨は苦虫を噛み潰した顔になりかけて、慌てて表情を戻した。いつの間にか、千鶴の側にワインレッドのヴァイオリンケース肩に提げた凛々子が、にこやかな表情で立っている。
「お久しぶり。未乃梨さん、コンクールでは大活躍だったそうね?」
「……ええ、まあ」
「確か、フォーレの『ドリー組曲』を演奏したのだったかしら。未乃梨さんのフルートで『子守唄』、ぜひ聴いてみたいわ」
「……あ、また機会があれば」
どこまでも穏便な凛々子に気圧される未乃梨を見て、千鶴はそろそろ晩夏に向かう時期の涼やかな朝の風の中で、嫌な感じの汗が背筋に浮いてくるのを感じた。
「それじゃ千鶴さんに未乃梨さん、音楽室に向かいましょうか」
「そうですね。凛々子さんは千鶴が弦バスを取ってくるまで音楽室の外で待ってもらって」
未乃梨もにこやかな表情で、千鶴と凛々子の間に割って入るように、千鶴の手を取った。その顔は少し引きつっているように、千鶴には見えた。
(……こういうの、呉越同舟って言うんだっけ。弱ったなあ)
千鶴は、自分より顔ひとつほど、凛々子より指の幅の二本分ほど背の低い未乃梨が、妙に子供っぽい嫉妬を見せているのに苦笑いせざるを得なかった。
事の発端は、コンクール県大会の帰りに千鶴が駅から未乃梨を送る途中だった。
すっかり日が落ちて西の空が赤らむばかりの夕暮れ時に、千鶴のスマホがメッセージの着信を告げたのだった。
「千鶴、誰?」
「ええっと……凛々子さんだ」
メッセージにこう書かれていた。
――千鶴さん、コンクールのお手伝いお疲れ様でした。夏休み、残りの日はまた学校にいらっしゃるのかしら?
凛々子の穏やかな声が聞こえてきそうなその文面を見て、未乃梨は眉尻を吊り上げかけた。
「凛々子さん、吹部の自由練習に千鶴に会いに来る気なの!?」
「未乃梨、落ち着いてよ。秋の発表会のこともあるし、そっちは私のピアノ伴奏、未乃梨にやってもらうじゃん?」
なだめる千鶴の手から、未乃梨はスマホを引ったくるように取ると、メッセージの返信を打ち始める。
――未乃梨です。今、千鶴と一緒に帰るところです。凛々子さん、自由練習の日に千鶴に会いに来るんですか?
――あら、未乃梨さんもいるの? 直接お電話した方がよさそうね
「え? 凛々子さん、マジで!?」
驚いて未乃梨が取り落としかけた自分のスマホを、千鶴が受け止める。その直後に着信があって、千鶴はスマホのスピーカーをオンにして電話を取った。
「もしもし、凛々子さん?」
『お二人ともお疲れ様。今、良いかしら』
「大丈夫ですよ。あ、コンクールの後は明後日の月曜から自由練習なんで――」
再び、未乃梨が千鶴のスマホを奪い取ってスピーカーに話しかける。
「もしもし。凛々子さん、また千鶴の練習を見にくるんですか?」
『それもあるけど、折角だしお二人を誘いたいことがあって。来週末、星月夜祭りに行かない?』
「ほへ? 凛々子さんとお祭り、ですか?」
間の抜けた声が出てしまった未乃梨に、スマホの向こうの凛々子が当たり前のように答える。
『ええ。私と千鶴さんと未乃梨さんと、もし良かったら誰かうちのオケからも誘おうかなって。それの話を今度お二人に会った時にでもしようかと思ったのだけれど、ちょうど良かったわ』
穏やかな凛々子の声に、呆気に取られかけた未乃梨が千鶴にスマホを返す。
「あ、もしもし。今、未乃梨から電話代わりました」
『千鶴さん、そういうことだから、詳しいことはまた月曜日にね。突然お電話してごめんなさいね』
「あ、お構いなく。ちょうど未乃梨を家に送る途中だったんで」
『まあ。エスコート、しっかりね。それじゃ、月曜日に』
凛々子からの電話が終わると、未乃梨は「……もう」とため息をついてみせた。
「で? 月曜からの自由練習、凛々子さんも千鶴の練習を見にくるのね?」
言葉に棘が出てしまう未乃梨に、千鶴はそろそろ肩に届きそうなストレートの黒髪の頭を掻いたのだった。
(続く)




