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♯264

「六声のリチェルカーレ」の背後にあるものに思いを馳せる千鶴と、その千鶴が遠く感じられて不安にさいなまれる未乃梨。

そして、コンクールの結果は……。

 左隣に座る未乃梨(みのり)の葛藤をよそに、千鶴(ちづる)は付属高校の「六声のリチェルカーレ」に聴き入った。

 千鶴の頭の中には、「六声のリチェルカーレ」に対する思索が続いている。

(形としてはつながっていても色合いがところどころで変わってるもの……結構あるぞ。歴史の授業の資料集で何か出てこなかったっけ)

 以前に「主よ、人の望みの喜びよ」を演奏したことを思い出して、千鶴は何かが自分の中でつながった気がした。

(この「六声のリチェルカーレ」も、前に「あさがお園」で演奏した「主よ、人の望みの喜びよ」もバッハが作った曲だっけ。バッハって教会でやるための曲を書いた人だったような……)

 教会、ということに思い至って、千鶴は中学や高校での歴史の授業で使う資料集の、キリスト教の文化に関する写真付きの小さな項目を思い出した。

(……教会にあるステンドグラスとか、モザイク画とか? そういうものを音楽で作ろうとしている曲、ってことなのかなあ)

 千鶴が思索を重ねるうちに、「六声のリチェルカーレ」は淀みなく流れていく。たった一人しかいないフルートとオーボエが歌い交わすその後ろで、やはり一人だけのファゴットが対置された別の旋律を歌う様は、吹奏楽どころか本格的に音楽に触れて日が浅い千鶴からしても、この上もなく繊細で美しく感じられた。

(付属高校の人たち、どんなことを考えてこの曲に取り組んだんだろう。こんな風に、色んなパートが色んなメロディを同時に演奏していくのって、私が今ここで聴いていても凄いことに思えるけれど、そこにたどり着くまでにどんなことをしてきたんだろう)

 千鶴が「六声のリチェルカーレ」を聴きながら巡らせた思索は、そこまでで歩みを止めた。

 その先は、大きな岩で塞がれた険しい道の向こうにどこまでも広がる空や雲や山々のように、進むことが出来ない先に遥かに見渡せる見事な景色のような、千鶴にとって未知と不思議に彩られた音楽の世界がある。

(私も、そういうところにたどり着くんだろうか。自分が見たこともない音楽に、いつか出会うことがあるんだろうか)

 付属高校の決して多いとはいえないクラリネットに、三人しかいないサックスや二人ずつのホルンやトランペットやトロンボーンが重なって、指揮台に立つ黒い詰襟の男子生徒が指揮棒を持たない両手を大きく振った。「六声のリチェルカーレ」は最後の和音に向けて真摯に進んでいく。

 音楽の穏やかで芯の強い歩みを全て聴き取ろうとして、千鶴は舞台全体を改めて見回そうとした。

 舞台下手に目を向けようした時に、千鶴は左隣りの客席に座る未乃梨が、どこか不安そうに自分の顔を見上げていることに気付いて、ちくりと針先が手に刺さったような痛みが千鶴の心に生まれる。

(え……未乃梨、どうしたの? 地区大会の時は付属高校の演奏を「凄かった」って言ってたのに? あ、でも、あの時、発表会のこととか、凛々子(りりこ)さんのことを言っちゃって、未乃梨に「私より、他の女の子の方がいいの?」って言わせちゃって……)

 未乃梨の顔から、千鶴は目を離せなくなった。その中で、「六声のリチェルカーレ」は澄んだ協和音の中に解決して結びを迎える。

 四割以上が空いた客席から、拍手が上がってじわじわと盛り上がる。千鶴も、未乃梨も、舞台の方を慌てたように向いて付属高校の生徒たちに拍手を送った。


 未乃梨は拍手を送りながら、横目で千鶴を見ていた。

(千鶴、「六声のリチェルカーレ」を聴きながら、何を考えていたの? やっぱり、凛々子さんのこと? オーケストラのこと?)

 未乃梨の中で、千鶴に対する不信に近い不安が、暗い雲のように浮かぶ。

(私の顔を見た時、どうして何か辛そうな顔をしてたの? 私に知られたくないことを考えてたから?)

 舞台の上の、指揮をしていた黒い詰襟の男子生徒が演奏者全員を立たせると、深々と客席に向かってお辞儀をして、舞台袖へと去っていく。演奏者たちも、やるべきことを全てやりきったような、どこか誇らしげな表情で舞台からはけていく。

 付属高校の他とは異質でしかも理想的に美しく感じられた演奏が終わっても、未乃梨は千鶴に対する不安でその場にうずくまりたくなってしまっていた。

(今日は、体調もちゃんと整えてきたのに。地区大会で聴いて温かい気持ちになれた付属高校の演奏のあとなのに……どうして)

 うつむき気味になってしまう未乃梨に、よく知る穏やかな声が掛けられた。

「未乃梨? どうかした? 気分、良くないの?」

 未乃梨が顔を上げると、千鶴と、その右側の並びの客席に座る高森(たかもり)と|植村

《うえむら》が、心配そうな顔で自分を見ている。

 未乃梨は、努めて明るい声と表情で千鶴たちに応えた。

「あの、大丈夫だから。先輩たちも、心配させてごめんなさい」

 頭を下げる未乃梨を見て、高森はほっと安心したように息をついた。

「このところ体調良くなかったんだっけ。びっくりしちゃったよ」

 植村も、高森に続いて頷く。

「外のロビーで休んどく? あと何校か演奏したら結果発表だし」

「折角ですし、全部聴いていきます。今の付属みたいに、勉強になる学校かもしれないですから」

 未乃梨は、明るい声と表情を崩さなかった。植村と千鶴も安心してくれたように見えて、未乃梨は明るく振る舞う表情の裏で胸が痛む。

(……私、なんで思ってもないことを言えちゃうんだろう。千鶴の前で、そんなことしたくないのに)

 次の高校の演奏が始まっても、未乃梨はいつも通りに振る舞う裏で、どこか上の空で演奏を聴いた。


 コンクールの県大会の発表が始まっても、未乃梨の上の空は続いていた。自分たち紫ヶ丘(ゆかりがおか)高校の前に演奏した学校の発表と、それに対する周りの悲喜こもごもも、未乃梨はどこか遠いことのように聞き流してしまう。

 その未乃梨を、舞台から発せられた声が現実に引き戻した。コンクール県大会の審査員長が、厳かに告げる。

「続いて、県立紫ヶ丘高等学校。ゴールド、金賞」

 未乃梨は、止まっていた思考や感情が一気に揺さぶられた。

「え!? ちょっと、ええっ!?」

「未乃梨、金賞だって! 凄いよ!」

 千鶴の祝福する声に、未乃梨はただただ戸惑うばかりだった。


(続く)

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