♯26
寝坊して朝の練習に遅れてきた未乃梨とその顛末と、その結果何故か千鶴が思い浮かべた凛々子のこと。
そして、凛々子に誘われた演奏の依頼は、どうやら千鶴の知らない世界のもののようで……?
二年一組の教室に入って、自分の席にスクールバッグとヴァイオリンケースを置くと、凛々子は窓から音楽室のある方に目をやった。まだ、教室には誰もいない。
(江崎さんに小阪さん、今頃、二人で練習してるかしら)
凛々子は席に座ると、スマホに入っているファイルをいくつか開いた。楽譜のデータが入ったそれを見ながら、ぼんやりと思いを馳せる。
(ヴァイオリンとヴィオラとチェロに追加で二人……高音と低音がひとりずつなら、悪くはないか)
凛々子の物思いを、溌剌とした声が遮った。声の主は、アシンメトリーのメッシュが入ったボブに、耳にピアスを着けた女子生徒だった。
「おはよう、お嬢様」
「あら高森さん、おはよう。あなたは朝は音楽室に行かないの?」
「吹部の練習なら本腰入れるのは来月からかな。ジャズ研とも掛け持ちしてるしね」
高森は凛々子の前の机に腰掛けると、スマホを上から覗いた。
「なんの楽譜? 六月のオケのやつ?」
「ちょっと演奏の依頼が、ね。江崎さんを誘おうかと思って」
高森はひゅう、と口笛を吹く真似をした。薄い唇から息の音が微かに漏れた。
「吹部のベースの子を? ま、吹奏楽ばっかりやるよりはいいだろうけど、ちょっと厄介かもね」
「厄介、ですって? 何が?」
「江崎さん、カノジョみたいな子がいるからね。知ってる?」
「フルートの小阪さんなら、その子にも声を掛けるつもりよ」
高森は「ふーん?」と意外そうな顔をした。
「そっちも誘うんだ? てっきり江崎さんだけかと思ってたよ」
「小阪さん、良いフルート奏者ですもの。せっかくだし一緒に演奏してみたいと思ってはいけないかしら?」
柳眉を吊り上げかけた凛々子に、高森は片手拝みをした。
「ごめんごめん。誰に告白されてもOKしないあの仙道凛々子が、って思うとさ」
凛々子は高森から音楽室の方向に視線を向けた。
「噂なら気にしてないわ。ただ、私がよく知らない相手とは付き合う気にはなれないだけよ」
「結構シンプルなんだね。にしても、あの二人を誘うって、どんな本番なの?」
「小さい子向けの演奏よ。ちょっと伝手があってね」
凛々子は、教室の戸口に目をやった。二年一組の教室にはそろそろ他の生徒も登校して、授業が始まる前に特有のざわついた空気が満ち始めていた。
一限目のあとの休み時間に、未乃梨は窓ガラスを鏡にして前髪を気にしていた。その後ろから、軽口が飛んできた。
「気にし過ぎじゃない? ほら、江崎さんもなんか言ったげなよ」
「今日のサイドテールも似合ってる、って朝に言ったんだけど、なんか気に入らないみたいでさ」
肩をすくめる結城に、千鶴は困ったように笑った。
「しょうがないじゃない。結城さんのポニテとか千鶴のボブと違って簡単にまとまらないんだから」
やれやれ、と結城は頭を掻いた。
「私だって大変なんだぜ? 姉貴のやつ、遠くの高校に通ってるから毎朝母さんと三人で洗面台を取り合いだよ」
「大変だね。うちは女のきょうだいいないし、小さい頃なんか達にぃとおんなじ床屋さんだしさ」
そろそろ耳や頬に掛かるほど伸びてきた、ショートボブの髪のサイドをいじる千鶴に、結城は「へぇ?」と意外そうな顔をした。
「運動部に入らないんなら、いっそ伸ばせば? 江崎さん髪質悪くないしさ」
「ダメよ。千鶴はボブのほうが可愛いんだから」
本人が気にするほど前髪が乱れていない未乃梨が、千鶴と結城にむくれて見せた。
「そうかもしんないけどさ。江崎さん、いい感じに髪伸びてるし、もうロングとかにしてもいいんじゃないの?」
「えーっ。中学からずっとショートボブだったのに」
取りなそうとする結城と、勝手にむくれる未乃梨を「まあまあ二人とも」となだめながら、千鶴は自分が髪を伸ばしたところを想像した。
(私の髪、固くて真っ直ぐだし、伸ばしても仙道先輩みたいに綺麗に決まらないだろうなあ……え、なんで、仙道先輩のことが……?)
千鶴は、一瞬、髪を伸ばした自分を凛々子と重ねていたことに戸惑った。
(私、あんな綺麗に毎日セットできるわけないのに……)
チャイムが鳴って、未乃梨も結城も自分の席に戻っていった。千鶴は自分の席に戻ってから教師が来るまでしばらく、頭の中に凛々子の長い黒髪のことが残ったままだった。
その日の放課後、凛々子はそれぞれの楽器を持った千鶴と未乃梨を空き教室に連れていった。
「この曲を、訪問演奏でやってみないかって話を頂いているのだけれど、どうかしら」
凛々子は教室の机の上に楽譜を三枚広げた。いずれも吹奏楽部でもらったパート譜とは違う、演奏する楽器の動きが同時に見られる楽譜で、千鶴にも未乃梨にも見慣れない外国語が書かれている。
三枚のうち一枚目は千鶴が凛々子や未乃梨と合わせたことのある「主よ、人の望みの喜びよ」だと気付いて、千鶴は内心胸を撫で下ろした。
その次の一枚に、千鶴が妙なことを感じたものがあった。
「仙道先輩、これ、ずっと同じことを繰り返す曲なんですか?」
「ええ。多分、二人ともどこかで聴いたことがあるはずよ」
何かに気付いた様子の未乃梨が、顔を楽譜から顔を上げて凛々子を見た。
「これ、知ってる曲です。低音以外のパート三つのうちひとつを私が吹くんですか?」
「そうよ。私のヴァイオリンとあなたのフルートと、あとの一つはヴィオラね」
千鶴は小首を傾げたまま、楽譜の最初のページの一番上の、見慣れないアルファベットの並びに目を落とした。
(パ……なんとかって人が書いた、カノン? どんな曲だろ?)
(続く)




