♯257
自由曲の「ドリー組曲」も、充実した出来で演奏する未乃梨。それを舞台袖から聴いている千鶴は、何故か凛々子のことを思い起こさずにはいられなくて……?
課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」を演奏し終えると、未乃梨は舞台に持参していたハンカチで軽く口元を押さえた。
(いつも通りの演奏……やれることはやり切ったはず)
未乃梨のいるフルートパートのすぐ近くに座る、クラリネットやオーボエといった高音の木管楽器のパート員や、フルートから見て反対側の舞台上手の前列にいるサックスのパート員も、練習の時より表情を引き締めている。
(ここから自由曲の「ドリー組曲」……しっかり吹かなきゃ、だけど、「小さな子ために演奏する」つもりで……)
未乃梨は、フルートを構え直した。盆休みで、祖父母や親戚にピアノを披露したこと、その時に弾いた「ドリー組曲」の「子守唄」を祖母に褒められたこともありありと思い出される。
(あの時、おばあちゃんは私に「素敵なお母さんになりそう」って言ってたけど……私はそんな風に優しくなれるのかな。あと――)
ほんの一瞬、未乃梨の中にあり得ないビジョンが浮かぶ。
(――もし、千鶴が男の子だったら……)
その空想を振り切ると、未乃梨は部員を見回している指揮台の子安を見た。
その指揮棒が降ろされて、紫ヶ丘高校の自由曲、「ドリー組曲」の演奏が始まった。
千鶴は、舞台上手側の袖から、他の初心者の一年生たちと固唾を飲んで「ドリー組曲」の一曲目の「子守唄」の演奏を見守った。コンクールの県大会でも、これほど静かに始まる曲を演奏している高校は今の時点で皆無だった。
サックスやクラリネットの二番がそっと進み出る柔らかで繊細な和音の中を、未乃梨のフルートが穏やかに語りかけるような旋律を紡ぎ出す。
その音は、課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」の時以上に優しい表情を描き出して、揺りかごを揺らすようなゆっくりとしたテンポの伴奏とともに、千鶴を「子守唄」の音楽に引き込んでいく。
不意に、舞台袖から演奏を聴いている千鶴の脳裏を、この場にいない姿が浮かび上がる。「子守唄」を演奏している未乃梨に、とある年上の少女がヴァイオリンを弾く姿が重なって、千鶴を戸惑わせた。
未乃梨に重なったその少女は、緩くウェーブの掛かった長い黒髪で、千鶴が幾度となくヴァイオリンを弾く姿を間近で見ている、凛々子その人だった。
(私、どうして今、凛々子さんのことなんか思い出してるんだろう……?)
凛々子がヴァイオリンで「子守唄」の旋律を弾く姿は、千鶴には余りに容易に想像できてしまっていた。
むしろ、一学期の放課後に「主よ、人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」を合わせた時のように、千鶴は自分がコントラバスで凛々子のヴァイオリンと「子守唄」を合わせている様子すら想像できてしまっている。
(……あれ? 今、未乃梨が演奏しているのを聴いているのに、どうして……?)
千鶴は知らずに、制服のスカートの端を握り締めていた。その千鶴の戸惑いをよそに、「子守唄」は夢見る子供を見守るように穏やかに閉じられていく。
その次の「ミ・ア・ウ」でも、千鶴の中で凛々子の演奏する姿が舞台で演奏しているコンクールメンバーに重なるように浮かんできていた。
未乃梨他のフルートセクションと踊り遊ぶように掛け合うクラリネットに、凛々子のヴァイオリンを弾く姿が浮かんできてしまう。そして、一緒にコントラバスを弾いているような不思議な感覚も、千鶴には更に鮮明に感じられていた。
(今度は未乃梨と凛々子さんが一緒で、私もコントラバスを一緒に弾いてて……私、今コントラバスをすごく弾きたくなってきてる!?)
そこに思い当たった千鶴に、ここではない場所のビジョンが頭の中ですっと広がっていく。どこかの広いコンサートホールで、ヴァイオリンやヴィオラやチェロといった弦楽器も、フルートやクラリネットやトランペットのような管楽器もいる中でコントラバスを弾く自分の姿が、千鶴にはありありと見え始めていた。
(コンクールのあとで、秋の発表会があって。その次に、凛々子さんのユースオーケストラに誘われてて……でも)
千鶴は、掴んでいた制服のスカートの端からするりと手を離す。
(……もし、私が本当に凛々子さんのオーケストラで弾くことに決まったら、未乃梨に何て話せばいいのかな。例の返事、未乃梨にも凛々子さんにもしてないのに?)
踊って遊び回るような「ミ・ア・ウ」は、地区大会では見られなかったような子供が見せるような気まぐれなテンポの変化すら聴かせて、最後を締めくくる。その時ですら、千鶴は凛々子のヴァイオリンの弓の挙動をどこかで思い出さずにはいられなかった。
(凛々子さんだったら、こういう時、オーケストラでしてたみたいに弓の動きで演奏を引っ張ったりしてたのかな。……私、何を考えてるんだろう)
次の「キティ・ワルツ」の終了後に舞台の転換をしなければいけないことを思い出して、千鶴は首をすくめる。
その「キティ・ワルツ」も、千鶴は凛々子を思い起こさざるを得なかった。音楽室から聴こえる「キティ・ワルツ」に合わせて、凛々子に誘われて一緒に踊るというか、ステップを一緒踏んだことがあった。
(こんなに凛々子さんのことばっかり思い出して、私……)
舞台から聴こえる「キティ・ワルツ」を、千鶴は落ち着いて聴くことができなくなりつつあった。
(続く)




