♯254
千鶴と、上級生たちと、そして未乃梨と。
それぞれに思いを抱えて、紫ヶ丘高校のコンクールの本番が迫る――。
舞台下手の袖でコンクールで演奏するメンバーと合流して待機をする頃になっても、千鶴が袖に入る前の廊下で聴いた乾学園の演奏に感じた疑問は拭えないままだった。
(管楽器って、あんな風に叫び声みたいな音で吹くものだったのかなあ)
五月の連合演奏会で千鶴も演奏に参加した課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」は、紫ヶ丘高校と乾学園では余りに違っている。
(未乃梨が吹いてたのと同じメロディは聴こえたけど、本当に同じフルートで吹いていたんだろうか)
乾学園の「スプリング・グリーン・マーチ」の前半で色々な木管楽器が主旋律を歌い継ぐ箇所や、中間部でのソロのフルートを、千鶴には廊下の壁越しに小石でも投げつけられているような気分で聴いた。
(未乃梨だったら、あんな風に吹かないはず。もっと柔らかくて、優しい音で――)
千鶴がぼんやりと考えているうちに、舞台の上にいる乾学園の次に演奏している高校が、課題曲の最後を締めくくっていた。
千鶴たち紫ヶ丘高校の前の出番の高校は、「マーチ『グランドサミット』」を選んでいた。勇壮なコーダを締めくくった後に少しの間静寂があって、不安を掻き立てるような和音から自由曲が始まった。
千鶴は、セッティングを任されたティンパニの側に忍び足で近付いてから、スカートのポケットに入れているプログラムを取り出した。
(前の学校は鳴宝学院高校って言うんだ。ここも、前に聴いた清鹿学園みたいな演奏だなぁ)
課題曲のマーチも、プログラムに記された「吹奏楽のためのコンポジションII」という見慣れないタイトルの曲も、千鶴には清鹿学園のようなひたすら剛直で耳に痛い音を出しているようにしか感じられなかった。
千鶴は、照明を落とされた薄暗い舞台袖を見回した。暗がりの中の他の部員たちの表情は、千鶴からはよく見えない。
(でも、こことかさっきの乾学園みたいな演奏がおかしいってわけじゃないのかも。どっちも紫ヶ丘よりずっとステージに上がってる人数は多いんだし、音は大きくなって当たり前なのかもしれないし)
千鶴は考えごとをそこで止めて、朝に説明のあった舞台のセッティングの流れを頭の中で確認する。その最中で、どうしても千鶴の頭の中に浮かんでくることがあった。
(……連合演奏会とか地区大会で聴いた、付属高校みたいな演奏、また聴きたいな)
舞台袖の暗がりの中で、自分のアルトサックスを抱えて待機していた高森は、誰かに二の腕をつつかれるのを感じた。
振り返ると、舞台の上では場所が近い植村が、自分のすぐ側に銀色のユーフォニアムを抱えて立っている。
植村は抱え上げたユーフォニアムの陰でこっそりと話しかけてきた。
「……乾もだけど、鳴宝もやるねえ。音程とリズムだけは完璧だよ」
「……有希、音程とリズムだけ、って言っちゃうんだ?」
高森は面白そうにユーフォニアムの陰に隠れた植村の耳元に問い返す。
「……言ってみりゃ、調律の合ってる最高級のグランドピアノで、精一杯大きい音で演奏してるようなもんだからね」
「……鍵盤を叩くだけなら、誰でも出来る、みたいな?」
「……ま、玲なら説明はいらないよね」
植村はそこで言葉を一度閉じると、離れた場所でティンパニの近くで待機している千鶴に目をやった。
「……ところでさ。うちの部のフルートのお姫様、弦バスの王子様とはどうなのよ? 玲、木管で何か噂になってないの?」
「……本番前にそういう話するかな? ま、この前ちょっと体調を崩して家まで送ってもらったみたいだけど……その時、よそのお姫様も一緒だったらしくてさ」
「……よそのお姫様? もしかして、ヴァイオリンの?」
本番前にしては、随分とリラックスした様子で植村は声を出さずに笑った。高森が、口の前に人差し指を立てて念を押す。
「……最近、江崎さんって髪伸ばしてたりして女の子っぽくなってきたじゃん? プールの時だって可愛い水着着てたしさ」
「……それ、もしかして仙道さんの影響だったりする? だとしたら、かなり面白いけど」
声を殺したまま、植村は笑った。高森も、表面上は真面目に取り繕う。
「……悪いけど、私は小阪さんに賭けてるからね?」
「……私も、お好み焼き諦めてないからね」
二人は周りに聴こえない声で軽口を叩き合いつつ、舞台の様子を伺った。
流石に地区大会よりは強い緊張に覆われた舞台袖で、未乃梨は不思議と静かな気持ちを保てていた。
周りをよく見れば、同じフルートパートの仲谷は強張った様子はないし、三年生の高杉に至ってはウルフカットの前髪を気にする余裕すらある。
(いつもどおりの演奏、か。確かに、練習でできないことは本番でもできるわけがない、よね)
未乃梨は、今年のコンクールは裏方のメンバーとして他の初心者の一年生と一緒に舞台のセッティングを行う、ティンパニの近くに立っている千鶴の周りに比べて一際背の高い姿に視線を向けた。
いつもの制服の半袖のブラウスにスカートのすらりとした姿が、来年は低音セクションの一員としてコントラバスを手にしていると思うと、未乃梨は早くも来年が楽しみになってくる。
その一方で、このところ毛先が肩に着きそうな勢いの千鶴のストレートの黒髪は、未乃梨に微かな不安を抱かせた。
(……千鶴の髪、もうあんなに伸びたんだ)
その千鶴の髪に、未乃梨はよく知る長い黒髪の人物を思い出さずにはいられなかった。
(……やっぱり、千鶴、凛々子さんと知り合ってから、どんどん変わってる。でも、千鶴は私の側にいてくれるはずよね)
未乃梨は薄暗い舞台袖で、憶せずにコンクールの出番を待った。
(続く)




