♯253
体調の微かな不安や漏れ聞こえる子安の過去が気になりつつ、県大会の演奏前に気持ちを引き締める未乃梨。
そして県大会のプログラムが始まって……?
千鶴が楽器置き場で他校の言動に首を傾げている頃、チューニングルームに集まった紫ヶ丘高校のコンクールメンバーは、地区大会の時よりははるかに緊張の度合いが濃い空気を味わっていた。
それでも、学年が上がるとその緊張感に飲まれる度合いは下がるらしく、サックスの高森は普段通りの様子で一年生に声掛けをしていたし、ユーフォニアムの植村に至っては、同じパートの三年生の梶本と談笑をする余裕すら見せている。
未乃梨は、フルートパートの三年生の高杉から左肩の先を軽くつつかれた。
「小阪さん、体調は大丈夫?」
「はい。薬が効いてくれてるみたいで」
今のところ、未乃梨の下腹部の痛みや胸元の不快な張りは起こっていない。ただ、バスの中で休んでいる間に、妙に体温が上がったような感覚があった。
(隣の席で千鶴が私を起こさないように静かにしてくれたのは助かるけど……何だか、もう演奏が終わったみたいに身体が暖まってるし、アガってるっていうよりはテンションが高いみたいな……)
未乃梨は、何となく自分の頬に手をやった。いつもより、やはり少しだけ顔全体が熱い気がする。
「今日は、気を引き締めていきます」
「小阪さん、エンジン掛かってるね。最後のコンクールで後輩が気合入ってると、ちょっと嬉しいな」
高杉は、未乃梨肩をぽんと叩いて微笑んだ。それを見て、フルートの二年生の仲谷も口角上げる。
「高杉先輩の代、コンクールどころじゃなかったですもんね。一年生の時に部員が半分ぐらい辞めちゃって」
「ま、しょうがないよね。残ったのは二年生の一部と一年生だけだったし。私は今の子安先生の指導、好きだけど」
肩をすくめてみせる高杉の言葉に、未乃梨の脳裏を過った言葉があった。
(そういえば、子安先生って「鬼の子安」って呼ばれてたんだっけ)
未乃梨はそのことを高杉に尋ねようとして、果たせなかった。その子安が、全員の前に現れた。
「皆さん、今日は気負わず、いつもどおりの演奏を心がけましょう。では、Bの音をお願いします」
部員たちがそれぞれの楽器で吹くBの音に合わせて、未乃梨もやや遅れてフルートでBを吹いた。周囲や自分の音を聴き比べながら、未乃梨は部員全員の前に立っている子安を見た。
(子安先生、紫ヶ丘高校に来る前は、どんな先生だったんだろう?)
あくまで穏やかに音を止める合図を出す子安の容貌は、どちらかといえば冴えない中年の男性で、未乃梨から見ても大勢を引っ張るようなリーダーシップも、生徒を従わせるような威厳も感じるのは難しい。
それでも、合奏練習で決して感情的にならず言葉を尽くして指導をし、未乃梨や千鶴が吹部ではない凛々子と学校外での演奏に行く時も、子安は快く送り出してくれたのだった。
チューニングルームを出て舞台袖に繋がる大きな控室に紫ヶ丘高校が通されると、先に入って待機していたよその高校の部員がざわめきかけた。それは、その高校の顧問らしき年配の男性が口の前に人差し指を立てると、一斉に静まり返っていく。
(……何だか私たち、変に注目されてるのかな。でも、気にしちゃダメだ。子安先生だって「気負わずいつもどおりの演奏で」って言ってたんだし)
未乃梨は何度かフルートを吹くときの唇を作っては緩めて、自分の調子を確かめた。
舞台袖に続く廊下で、千鶴は打楽器のパート員や他の初心者の一年生と一緒に、管楽器のコンクールメンバーとの合流を待っていた。
廊下まで舞台で今演奏している高校の音が聴こえて、千鶴は首をすくめた。
(……やっぱり、とにかく大きい音を吹けばいい、って思っている学校がほとんどなのかなあ)
千鶴はスカートのポケットに丸めて差し込んだプログラムを開いた。今演奏しているのは紫ヶ丘高校の二つ前の私立高校で、クリーム色のジャケットと茶色のスカートの衣装の乾学園の吹奏楽部らしい。
(確か、楽器置き場の番をしている時に見掛けた学校だっけ? ……あれ?)
千鶴は、舞台の上で演奏している課題曲が紫ヶ丘高校が演奏するのと同じ「スプリング・グリーン・マーチ」だということにやっと気付いた。気付くのに時間がかかったのには、それなりの理由があった。
(……この曲、こんな乱暴だっけ?)
小首を傾げた千鶴の後ろで、誰かが声をひそめる。
「……高森先輩とか、こんな風にビリビリした音で吹いてないよ?」
「……うちの三年生の先輩たちも、クラリネットでこんなキャーキャーした音、出したことないけどなあ?」
並の高校生の男子より背の高い千鶴の背後に隠れるように、紫ヶ丘の初心者の一年生がこそこそと話していた。会話の内容からして、サックスとクラリネットのパート員だろうか。
(この高校も何だかうるさい音とにかく出すみたいな感じだけど……テューバなんか全員が蘇我さんみたいに吹いてるのかなあ)
演奏前のセッティング作業に入る前から、千鶴は自分がげんなりと疲れてしまったように思われた。
(続く)




