♯252
コンクールの会場に向かうバスの中でスマホで「マイスタージンガー」前奏曲を聴きながら、自分たちの関係に思いを馳せる千鶴。
会場では、妙な噂も耳にして……。
県大会の会場に向かうバスの中で揺られながら、千鶴はそれとなく周りの座席を見回した。
さすがに、連合演奏会の行き帰りの時の遠足にでも向かう感じに似たくだけた雰囲気は皆無で、バスの中は話し声はまばらだった。
千鶴の隣の窓側の席で、未乃梨はシートを倒して目元に細く畳んだハンカチをアイマスクのように置いて、静かに休んでいる。
(コンクールに出るメンバーは、緊張してるよね)
周囲の張り詰めた空気に首をすくめつつ、千鶴はスマホにつないだイヤホンを耳に差し込むと、音楽再生アプリを立ち上げる。再生する曲のタイトルは、凛々子からコントラバスのパート譜を渡されている「ニュールンベルクのマイスタージンガー」前奏曲だ。
意外に速くない、悠揚迫らぬテンポの堂々とした響きの底に聴こえる低い音を追いながら、千鶴はこの曲についてスマホで軽く調べたことを思い出す。
(確か、楽劇っていうオペラみたいなやつ? それの最初に演奏する曲で、舞台はニュールンベルクっていう街の歌合戦で、そこで勝ってエーファって女の子にプロポーズしようとする若者ヴァルターと、彼を影で助けた靴屋の親方ザックスと、ヴァルターの邪魔をしようとする役人のペックメッサーがいて……)
千鶴はそんなことを思い出しつつ、隣でハンカチで目元を覆って静かに休んでいる未乃梨を視界の端で見た。先日よりは体調は安定しているらしく、未乃梨は静かに寝息を立てているようだった。
(未乃梨、コンクールの後で、ヴァルターみたいに私にプロポーズしたいのかな。それだと……私がエーファ? 未乃梨の方がヒロインっぽくて、私が男役っぽいけど)
様々な旋律が絡み合いながら、堂々と進む音楽を聴き進めながら、千鶴は別のことにも思い当たる。
(それだと凛々子さんはペックメッサー……だと、この前未乃梨を一緒に家に連れて行ったり、「あさがお園」の訪問演奏に未乃梨を誘ったりしないだろうし……うーん?)
千鶴の隣で、休んでいる未乃梨が小さく身じろぎをした。思わず、千鶴はスマホの音量を確かめる。
(音漏れとか、してないよね)
一応、スマホの音量を少し落とすと、千鶴は未乃梨と反対側の通路側に目をやった。
通路を挟んで向こう側の席では、テューバの蘇我が窓側で縮こまって座っている。その蘇我が千鶴に気付いて、不機嫌そうな仏頂面に切り替わった。
「いい気なものね。出番がないからってスマホで音楽なんか――」
「静かにしてな。あんたもメンバーでしょ」
蘇我が小声で嫌味を言い終わる前に、蘇我の隣の通路側に座る上級生が蘇我の片耳を引っ張って黙らせた。
千鶴が再生を止めてイヤホンを外すと、その女子の上級生は千鶴に向かって片手拝みをしてみせた。
「あの……」
「ごめんね江崎さん、気にしないで聴いてて。蘇我、あたしが先生にCD借りて聴くのですら文句付けて来る奴だから。クラリネットのことろくに知らないなら噛みつくなっての」
その上級生の向こうで、蘇我は会場に着くまで不機嫌そうにバスの窓を向いたまま、千鶴の顔をみないようにして過ごした。
会場の産業文化会館というホールに着くと、未乃梨はバスから降りてゆっくりと深呼吸をした。足取りはしっかりとしていて、千鶴が手を引かなくても大丈夫そうではあった。
「未乃梨、調子はどう?」
「大丈夫、かな。……実際、ちょっと怖いけど」
つとめて明るく笑う未乃梨も、やはり緊張とは無縁ではいられないようで、周りを歩く他校が気になるようではあった。
楽器や譜面台を各校に割り当てられたホール内の楽器置き場に搬入し終えると、千鶴はチューニングルームに向かう楽器を準備したコンクールメンバーの部員を見送った。
平常通りのサックスの高森や、どこか張り切っているユーフォニアムの植村、相変わらず仏頂面の蘇我といった面々が去った後で、楽器置き場の番を任された千鶴の耳にふと妙なひそひそ声が届く。
「……ねえ、あの背のでっかい女の子が居残ってる制服の学校、どこ? 去年はいなかったよね」
「……さあ? 人数も少なそうだし、去年まで地区止まりだったってことじゃないの?」
「……ねえ、あそこ、紫ヶ丘だってさ。鬼の子安が復活して教えてるとこらしいよ」
「……ヤバ。あの人、戻って来たんだ?」
(何の話をしてるんだろ? 子安先生がどうとか)
千鶴が声の聞こえた方向を振り向くと、そのひそひそ話の一団は一斉に千鶴から顔を背けた。
身に着けている立派なクリーム色のジャケットや、特別に誂えたらしい制服ではなさそうな茶色いスカートは演奏用の衣装だろうか。その少女たちはいそいそとその場を去りながら、好き勝手なことを言い合っている。
「……うわ。聞かれたかも。去年まで地区のダメ金止まりだったくせに」
「……どうせ、置き場の番だし大した子じゃないんでしょ」
「……そうそう。コンクールメンバーじゃない子なんか、気にしたってしょうがないよね」
千鶴は、そんな彼女たちを不思議な生き物を見る目で見送った。
(運動部のレギュラー争いみたいなの、よその学校だとあるのかなあ?)
千鶴は、トラックから楽器類を運び出す時に髪を結んでいたゴムを外すと、配られていたプログラムに目を落とす。
(紫ヶ丘の出番は午前中の真ん中ぐらいだっけ……にしても。さっきみたいに陰口を叩いてる人たち、どんな演奏をするんだろうなあ)
肩に届きそうな長さのストレートの黒髪の内側をプログラムで扇ぎながら、千鶴は周りを行き交う他の高校の吹奏楽部員を、ぼんやりと眺めた。
(続く)




