♯251
未乃梨を家まで送り届ける千鶴と凛々子。未乃梨を気に掛ける凛々子には、それなりの理由があって……?
そして、ついに県大会当日の朝を迎えた未乃梨は。
紫ヶ丘高校の最寄り駅で千鶴と凛々子は未乃梨を連れて電車に乗り込むと、未乃梨を空いている座席に座らせた。
「未乃梨さん、大丈夫?」
フルートケースとスクールバッグを渡しながら、凛々子がまだ顔色が上気したままの未乃梨を気遣う。
「……ちょっと、痛みは落ち着いてきたかも」
そうは言っても、電車の座席に腰を落ち着けてからも未乃梨は時折へその下辺りに手を当てている。
「未乃梨、無理しないでね」
「……うん」
少し気恥ずかしいのか、未乃梨はやや伏し目がちになって千鶴に返事をした。
千鶴と未乃梨の家の最寄り駅に着いてから、今度は千鶴が未乃梨の荷物を預かって、凛々子が未乃梨の手を引いた。先を歩く千鶴の背中を見ながら、凛々子はうつむきがちな未乃梨にそっと話しかける。
「今日は、朝は大丈夫だったの?」
「……はい。どっちかっていうと、今日は調子が良くて、合奏も上手くいってて、満足のいく演奏だったんですけど……」
「じゃあ、演奏の仕上がりは上々で、気分が良かった矢先、ってことだったのね」
「……凛々子さん、分かるんですか?」
まだ顔の薄いピンク色が引かない未乃梨が、自分の手を引いている凛々子の顔を見た。その細くて長い指が、未乃梨には何故か不快ではなかった。
「私も、中学の頃は毎月大変だったから。私の場合は、ブレーキが利かなくなったみたいに体力を消耗しちゃう感じだったけど」
「凛々子さんも、そんなことあったんですね」
「私も女の子ですもの。病院で見てもらって薬で症状を抑えるようにしてから、生活に支障はなくなったけど」
「病院、かあ」
未乃梨は億劫な気持ちになりつつ、自分のフルートケースやスクールバッグも預かって前を歩く千鶴の背中を見ながら、凛々子に小声で尋ねる。
「……凛々子さん、どうして私のことなんか、気にかけてくれたんですか?」
「目の前で辛そうにしている人を見捨てられるほど、私は冷たい人間ではないわよ。それがあなたなら、尚更、ね」
「前に、千鶴の前であんなに私から突っかかられたのに、ですか?」
凛々子は、未乃梨の手を優しく支えたまま、千鶴の背中を見据えた。
「ええ。私は同じ相手を好きな女の子と、対等でいたいの。私は、自分があなたを蹴落とすようなことがあったら、千鶴さんの隣にいる資格はなくなると思っているから」
凛々子の細く長い指が、未乃梨の手を優しく引き続ける。その感触に甘んじたまま、未乃梨は何も言えずに足元を見ながら歩いた。
建物や街路樹の陰を辿りながら、三人は未乃梨の家に着いた。
家の鍵を取り出す未乃梨に、千鶴が荷物を手渡す。
「未乃梨、今日はおうちの人は?」
「あ、うちの親、お盆明けから仕事なの。母さんは夕方まで、父さんは夜まで帰ってこないの」
凛々子が、心配そうに未乃梨を見た。
「しっかり休むのよ。辛かったら、お医者さんかかりなさいね」
「……ありがとうございます。それじゃ、ここまでで大丈夫なので」
額にまた汗が浮かぶ未乃梨を、千鶴も気遣った。
「もうすぐコンクールだし、無理、しないでね」
「……うん。千鶴も、ごめんね。それじゃ」
家の中に未乃梨入っていくのを見届けると、千鶴と凛々子は安心したようにひと息をついてから、来た道を引き返す。
歩きながら、千鶴は隣を歩く凛々子に、それとなく声を掛けた。
「未乃梨、大丈夫だと良いですけど」
「そうね。私たちにも毎月あることだし、他人事ではいられないわね」
「ところで凛々子さん、未乃梨と何を話してたんですか?」
「大した事ではないわよ。未乃梨さんは、私が気にかけていたことが意外だったようだけれど」
凛々子は自分の緩くウェーブの掛かった長い黒髪を搔き上げた。その姿に、千鶴は思わず立ち止まって見とれそうになる。
「……その、凛々子さん、未乃梨のこと、好きじゃなかったらどうしようか、って思っちゃいました」
「そんなこと、気にしてたのね。心配いらないわよ」
大きな街路樹が日陰を作る交差点に差し掛かって、凛々子はふと足を止めた。
「千鶴さん、オーケストラのこと、考えて置いてね。今日渡した『マイスタージンガー』も、少しずつでいいから練習を進めておいてね。約束よ」
「……はい」
「それじゃ、私はこれで。未乃梨さんに、コンクール頑張って、って伝えておいて」
凛々子はそう言い残すと、長い髪を揺らして駅に向かう道を歩いていった。
千鶴は、その緩くウェーブの掛かった長い黒髪を残暑に熱された風に吹かれる凛々子の後ろ姿が見えなくなるまで、大きな街路樹の陰で立ち尽くしていた。
そして、コンクールの県大会の朝を、未乃梨は悪くない体調で迎えた。
(……ちょっとお腹に違和感があるけど、なんとか大丈夫、っと)
未乃梨が家を出る前に飲んだ薬は、市販薬ではあっても効いてくれそうな気がする。ただ、学校でトラックに譜面台や大型楽器の積み込む手伝いは、フルートパートの上級生の仲谷や高杉に止められてしまった。
高杉はトラックの荷台に上がって積み込みを手伝う千鶴に目をやりながら、未乃梨を諭す。
「小阪さん、今日は力仕事はやっちゃダメだからね」
「あ、はい……」
「フルートの一番は代わりがいないんだから、今日は演奏のことだけに集中してて。いいね?」
高杉に背中を押されて、未乃梨は既に到着しているバスに向かう。積み込みを終わらせた千鶴も、後を追いかけてきた。
「未乃梨、今日は頑張ってね。応援してる」
「ありがと。舞台裏で、しっかり聴いててね」
千鶴に励まされて、未乃梨は笑顔を浮かべて頷いた。
(続く)




