♯250
改めて、凛々子からオーケストラに誘われる千鶴。凛々子は千鶴に、演奏者としても一人の人間としても強い好意を抱いていて……。
千鶴が「ニュールンベルクのマイスタージンガー」前奏曲の楽譜を受け取ってから、わずかな間だけ表情が寂しげに消えたのを、凛々子は見逃さなかった。
「千鶴さん、部活のことが心配かしら?」
「……はい」
力なく答える、意気の消えた千鶴を、凛々子はそれでも勇気付けるように問う。
「大丈夫なのではなくて? 以前に『あさがお園』の訪問演奏も、顧問の子安先生、快諾してくれたでしょう?」
「そういえば……部活の外でも演奏する機会があれば、どんどん挑戦してほしいって、言ってました」
それでも、千鶴の表情は晴れないようだった。
「もしかして、気にしてるのは、未乃梨さんのことかしら?」
凛々子に図星を突かれたように、千鶴ははっと顔を上げた。
「その、未乃梨のことは気にしてるっていうか、吹奏楽部に誘ってくれたのも未乃梨だし、でも、オーケストラに入ったら未乃梨を置いてきぼりにしちゃうみたいで」
「部活に入ったままオーケストラにも参加すればいいわ。それではいけないの?」
「それだと、部活とオーケストラ、両方の練習についていかなきゃいけないんじゃ……」
「不可能ではないわよ。どうして、私が千鶴さんに曲以外に音階の課題を出したと思うかしら?」
「……そういえば、『調和の霊感』がイ短調で、今もらった『マイスタージンガー』の楽譜ってだいたいハ長調……?」
千鶴は、イ短調の音階と並行して練習したヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番が、さほど苦労もせずに弾けてしまったことを思い出した。
「じゃあ、ハ長調の音階をやったら『マイスタージンガー』も弾けるようになっちゃったり……?」
「そこまで単純ではないし、他にも勉強することがあるけど、何も分からないまま練習するのとは大違いよ。と、いうより」
凛々子はそこで言葉を切ると、自分のヴァイオリンケースから大判の楽譜を取り出して、中を開いて見せた。
その数十ページほどある教本らしきものは、千鶴が凛々子から課された音階の課題とどこか似通った、ト音記号の譜表で書かれた何段にも渡る課題がをびっしりと埋め尽くしていた。ところどころに入る書き込みや、変色して擦り切れたページの端が、凛々子が積み上げてきた努力と練習を物語っている。
「音階とか和音みたいに、音楽の構造を知れば手も足も出ない曲はないと考えていいかもしれないわね。これはヴァイオリンのだけど、それを勉強するためだけの課題って楽器も歌も関係なくあるのよ」
「じゃあ、そういう練習をしていけば吹部の曲もオーケストラの曲もなんとかこなせる、ってことですか?」
「そう考えて構わないわ。そういうサポートもしていくつもりよ」
「凛々子さん、どうしてそこまで私に?」
小さく溜め息をついてから、凛々子は千鶴に口角をやや上げてみせる。
「理由は三つ。一つ目はあなたに上達の見込みがあるから。二つ目は、あなたがやってるコントラバスっていう楽器が、オーケストラに欠かせない楽器だから。そして、三つ目だけれど」
「それって――」
千鶴が言い終わる前に、凛々子が口を開いた。
「あなたと同じ舞台に立ちたいし、演奏以外でもあなたと一緒にいたいからよ。これ以上の理由はないし、私は自分に正直でいたいの」
顔色ひとつ変えずに、凛々子は言い切った。
千鶴は、それを聞かされても何も言えず、凛々子の顔を見たまま立ち尽くすことしかできなかった。思わず、高鳴っていく鼓動を静めようとして、軽く握った拳で胸元を押さえると、千鶴はやっとのことで言葉を絞り出す。
「……オーケストラに誘ってくれることは、とっても嬉しいです。でも、凛々子さんへのお返事、もう少し、待ってくれませんか」
「もちろんよ。私も、あなたに振り向いてもらえる相手にならなければ、ね」
凛々子は再び、まだ鼓動が落ち着かない千鶴に向けて、軽く口角を上げてみせた。
個人練習の時間が終わっても、凛々子は千鶴が音楽室にコントラバスを返しに行くのについて行った。
「未乃梨さんもだし、顧問の子安先生がいらっしゃったらお会いしたいわ」
凛々子が付いてくる理由はやや強引な気がしたが、千鶴には凛々子がついて来ることを何故か受け入れていた。
「それじゃ、楽器を戻して来ますんで、廊下で待ってて下さいね」
千鶴は、コントラバスを倉庫に戻すと、フルートケースを手にしたウルフカットの髪の上級生に呼び止められた。
「あ、ちょっと。江崎さん」
「あの……何でしょうか」
ウルフカットの髪の上級生は、背伸びをして千鶴の耳元で声をひそめる。
「……確か、うちのパートの小阪さんと帰りは同じ方向だよね? 家まで送ってあげてくれないかな」
「……未乃梨、何かあったんですか?」
「……ちょっと体調が良くないみたい。ここじゃ男子がいるから、詳しくは言わないけど」
「……分かりました」
千鶴は、フルートを仕舞い終えた未乃梨に声を掛けた。
「未乃梨、帰ろ?」
「あ、うん。ちょっと待ってね!」
騒がしく頷いた未乃梨の顔色は、いつもより火照っているように、千鶴には見えた。頬がメイクを施したようなピンク色に染まって、額がやや汗ばんでいるあたり体温が少し上がっているように見えなくもない。未乃梨の瞳は瞳孔が開いているのか、いつもより光っているようにすら感じる。
(運動部の子がしんどい試合を乗り切った後みたい? 疲れてるけどテンションだけは上がってるみたいな)
千鶴は、帰り支度が済んだ未乃梨の手を引くと、廊下に連れ出した。未乃梨のやや汗ばんだ髪が、微かに甘く匂う。
廊下で待っていた凛々子が、未乃梨の様子を見て目を見開いた。
「未乃梨さん、どうしたの?」
「あ、凛々子さん。その、だ、大丈夫ですからね!?」
未乃梨は恥ずかしそうに、凛々子に応える。その頬に浮かぶピンク色は濃さを増した。
「大丈夫? 熱中症とかではなくて?」
「……その、部活中に、来ちゃったみたいで」
「無理をしてはだめよ。千鶴さん、未乃梨さんをおうちまで送って行きましょう」
「……あ、はい。未乃梨、行くよ」
「……うん。……あっ」
千鶴が未乃梨の手を引こうとすると、未乃梨は一瞬立ち止まってへその下辺りを押さえた。思わず、千鶴は未乃梨の腰に手を回して支える。凛々子は、未乃梨のスクールバッグとフルートケースを預かると、未乃梨の右手を引いた。
「千鶴、ありがと。凛々子さんも、すみません」
顔を上気させたまま、未乃梨は千鶴と凛々子に支えられてそろそろと歩き出した。足取りはしっかりしているものの、未乃梨のやや上がった体温や上気した表情に、千鶴と凛々子は、思わず顔を見合わせた。
(続く)




