♯248
経験したことのない合奏の完成度に、精神も身体も熱を帯びていく未乃梨。千鶴も、練習の進度を凛々子に褒められつつ、休憩に入って……。
千鶴が凛々子に練習の成果を見てもらっている頃、音楽室では、コンクールに向けての練習が大詰めに向かっていた。
課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」でも、自由曲の「ドリー組曲」でも、地区大会のときとは少々異なる、部員同士が自主的にアイデアを出してアンサンブルが組み上がっていくという自由で生気に溢れた演奏に変わりつつあった。
未乃梨は、「ドリー組曲」の「キティ・ワルツ」が終わりに近付く頃には、運動をした後に体温が上がったような、心地よく気分がみなぎっているのを感じていた。
(何だろう、こんな風に、合わせようとしていないのに部活のみんなと気持ちよく演奏が噛み合っていくなんて、今までになかった……)
「キティ・ワルツ」の中間部の、小節二つで大きな三拍子のようにリズムが組み変わる箇所では、顧問の子安の指揮をいっとき離れてテンポが微かに速まり、子供たちが無邪気に踊るようにすべてのパートが噛み合って、このワルツの可愛らしい彩りを引き出すと元のテンポに戻ってワルツの主部へと子安の指揮に合わせて再び入っていく。。
子安は、「キティ・ワルツ」が終わると大きく頷いた。
「皆さん、今の中間部、凄かったですよ。一瞬私の指揮とずれましたが、今のは皆さんが正解です」
「……あの、先生、指揮と違う演奏をしちゃって、大丈夫でしょうか」
満足そうな子安に、三番クラリネットの一年生の女子が恐る恐る手を挙げた。ほとんどの部員が暑さ対策で制服のネクタイやリボンタイを外していたり、一部の部員に至っては半袖の体操服や私服のTシャツで合奏に参加する中で、その一年生の女子は生真面目に青いリボンタイを着けている。
子安は、笑みすら浮かべながら音楽室を見回した。
「実は、大丈夫なんですよ。中間部で皆さんがテンポを上げてから、元の曲調に戻るところではドンピシャで私の指揮に合っていました。アンサンブルを乱さずにこういうテンポの揺れが自然にできて、かつ私の指揮に戻ってこれるのは、理想的なアンサンブルなんですよ」
「そうなんですね……? わかりました」
そのクラリネットの一年生は、目を丸く見開くと生真面目そうに自分のパート譜に何やら書き込みを始める。
未乃梨は、心地よい高揚感で身体が奥から温まるのを感じながら、その一年生と子安のやり取りを聞いていた。
(……やっぱり、高校での部活、中学の時と全然違う。先生の指揮から外れてしかも合奏が乱れてなくて、しかもこんな良い演奏に仕上がるまで、午前中だけの練習でできちゃうなんて)
中学まではコンクール間近の時期になると身体の中に積もりだす疲労も、高校に上がってからは未乃梨には無縁だった。それに代わるように、体験したことのない演奏の完成度からくる精神的な充実が、未乃梨に活力を与えている。
未乃梨は、音楽室の向こうで何か言いたげなテューバの蘇我と、その蘇我の肩に手を置いて無言で黙らせるユーフォニアムの植村を見ながら、この場にいない人間のことを思い浮かべる。
(テューバの新木先輩とか蘇我さんとか、ユーフォの植村先輩とか梶本先輩の近くに、千鶴が弦バスを持って立ってたらいいのに……)
その未乃梨の物思いは、子安の言葉で中断された。
「さっきの『キティ・ワルツ』の中間部に入る少し前から、、今のテンポの変わり方を意識してもう一度やってみましょうか。皆さん、お願いします」
未乃梨は、身体の奥の熱につき動かされるように、子安の指揮棒が上がるのを見て、真っ先にフルートを構えた。
遠くから聴こえてくる、磨き上げられていく音楽室の「ドリー組曲」を聴きながら、凛々子はリボンタイを外した制服の半袖のブラウスの襟元に風を入れた。
「未乃梨さんたち、頑張ってるわね」
「やっぱり、未乃梨も先輩たちも、凄いですね」
「あなたも、ね。千鶴さんのコントラバス、この夏の間で私が思った以上に練習が進んでいるわ。この調子よ」
凛々子に褒められて、千鶴は面映ゆさを感じつつコントラバスを床に寝かせると、先ほどまで腰掛けていた空き教室の机に座り直す。個人練習を始めてから一時間ほど経っていて、そろそろ休憩入れたくなる時間だった。
音楽室の合奏に混ざって違う方向のどこかの空き教室から聞こえる、他の初心者の一年生の練習の音を聴きながら、千鶴も凛々子も練習の合間にくつろいでいた。
ふと、千鶴がスマホをスカートのポケットから取り出す。
「あ、そうだ。最近、こういう曲を見つけたんですけど」
「クラシックで? 何かしら」
千鶴が腰掛けている机に、凛々子も座ってスマホの画面をのぞき込む。そこに表示されている曲名を見て凛々子は喜色を浮かべた。
「チャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ』ね。素敵な曲を見つけたじゃない?」
「凛々子さん、この曲知ってるんですか?」
「知ってるも何も、チャイコフスキーの代表作のひとつよ。この曲、いつか弦楽四重奏で弾いてみたいぐらい、大好きな曲だわ」
机の上で隣に座ってきた凛々子の、緩くウェーブの掛かった長い黒髪が千鶴の肩に触れた。それを気にもせず、凛々子は千鶴の手にしているスマホに表示された再生ボタンに指先で触れる。
語りかけるような、弦楽四重奏による飾らない旋律が、スマホの小さなスピーカーから流れ出す。
「あ……。凛々子さん、イヤホン取ってきます」
千鶴は、決して音質が良いとはいえないスマホのスピーカーを気にして、座っていた机から降りようとした。その千鶴の手を、凛々子がそっと握る。
「このまま、最後まで聴きたいわ」
千鶴のスマホを持った左手が、凛々子の左手の長い指に絡め取られるように、千鶴のスカートの膝の上に下りる。そのまま、千鶴と凛々子は身を寄せ合うようにスマホから流れる「アンダンテ・カンタービレ」を聴いた。
千鶴は、「アンダンテ・カンタービレ」の再生が終わるまで、微動だにできなかった。自分のスマホを持った左手は、凛々子の手に取られたまま自分の膝の上に置かれている。机の上で隣にくっつく形で座る、制服越しに感じる凛々子の体温は、暑いさなかの夏の午前中にも関わらず不快さを感じない。
「……こんな所、未乃梨に見られたら怒られちゃいます」
「その時は、三人で一緒に聴けばいいわよ」
音楽室から聴こえてくる合奏や、他の空き教室での個人練習の音は途切れる様子がない。「アンダンテ・カンタービレ」の再生が終わるのが先だった。
千鶴の顔を、くっついて座ったままの凛々子が見上げる。
「もう少し、休憩したい?」
「……もう。からかわないで下さい」
千鶴は顔を赤らめてスマホをスカートのポケットに収めると、腰掛けていた机から下りる。それでも、千鶴は同じ机から下りようとする凛々子の手を預かった。
「あら。千鶴さん、優しいのね」
「……そういうわけじゃ、なくて」
「良いのよ。誰に対しても優しい女の子だから、私は千鶴さんを好きになったんだもの。さ、練習を再開しましょうか」
凛々子が千鶴の手を離れるころ、音楽室の合奏は静まりかえっていた。
合奏練習が休憩時間に入って、未乃梨は大きく息をついて呼吸を整えた。身体をほどよく温める高揚感は、まだ未乃梨の中に残っている。
(こんなに合奏がうまくいくの、初めてかも)
未乃梨は、ハンカチで額の汗を拭おうとした。不意に、衣服が身体を締め付けるような感触が、一瞬だけ未乃梨に降りかかる。
(どうしたんだろ? ……あれ?)
締め付ける感覚は、数秒もせずに治まった。同時に、未乃梨の体温が平常に戻っていく。それが、治まった熱の出どころをかえって未乃梨にはっきりと伝えていた。
(身体が熱いっていうより、胸元だけが熱いのかも……そういえば、今月、そろそろ……?)
未乃梨は、周りに気づかれないように、心臓の辺りにそっと手を置いた。熱が引き始めた未乃梨の胸元のふくらみは、左右両方とも普段より少し固く張っているように思われた。
(続く)




