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♯247

凛々子に机に腰掛けて低くコントラバスを見てもらう千鶴。そこで見つかった問題点は、色々なことにつながっていくようで……?

 次の日の千鶴(ちづる)の個人練習は、意外な言葉から始まった。

 凛々子(りりこ)は、空き教室で机に腰掛けてコントラバスを弾いている千鶴を見つけると、開口一番にこう言った。

「……思ってたのと、全然違ったわね」

「え!?」

 びくりと背筋を引きつらせてコントラバスを弾く手を止めた千鶴を、凛々子は「ああ、駄目ってことじゃないのよ」と、千鶴にコントラバス越しにゆっくりと近付くと、その構え方を頭のてっぺんから楽器を支える左足の足元までを見回した。

「思ってたより、変な構え方ではないわね。動画か何かで、誰か座ってコントラバスを弾いてる人を観て、真似してみた感じかしら?」

「あの、……実は、この前の凛々子さんのユースオーケストラに弾きに来てた、本条(ほんじょう)先生を真似してみました」

「本条先生か……なるほどね。お手本としては、理想的かしら」

 凛々子は顔を小さく縦に振ると、千鶴を正面から見た。

「じゃ、改めて音階を弾いてもらいましょうか。ハ長調の課題、練習してあるわね?」

「はい」

 千鶴は頷くと、ハ長調の音階を上がっては下がってを繰り返す課題を、教室の机に腰掛けたままコントラバスで弾き始めた。途中に何度となく現れる、(デー)(アー)などの開放弦と同じ音がしっかり共鳴して、空き教室の中の空気が濃さを増したような響きが広がっていく。

 四分音符だけで書かれたハ長調の音階を、千鶴は最初四分音符を教室の時計の秒針に合わせて弾いて、危なげなく最後の一番低い(ツェー)にたどり着いた。凛々子がそれに気付いたように、時計を見上げる。

「では、今のを倍のテンポで。時計の秒針を四分音符として、全部八分音符だと思って弾いてみて」

 返事をするより早く、千鶴の手が動いた。先ほどの倍、時計の秒針ひとつに対して音符を二つ入れるテンポで千鶴はハ長調の課題を弾いていく。テンポが更にその倍、秒針ひとつに音符を四つ入れるテンポになっても、千鶴の右手の運弓と左手の運指は乱れていない。

 それでも、凛々子は千鶴の弾くコントラバスから目と耳を離さなかった。テンポが元の四倍ともなると、弓の毛が弦を擦る時の雑音がどうにも目立ってくる。それが、凛々子には気にかかった。

 凛々子は千鶴がハ長調の音階の課題を弾き終えるのを待ってから、持参してきたいつものワインレッドのヴァイオリンケースを開けた。弓を手に取ってヴァイオリンを構えると、凛々子は千鶴の前に進み出る。

「ハ長調の課題、まずはテンポ六十の十六分音符で弾けていたの、凄かったわよ。で、次の課題なんだけど」

 凛々子は、先ほどの千鶴と同じように、ヴァイオリンで秒針一打ちに音符四つのテンポでハ長調の音階を弾いた。細かく弦の上で往復するヴァイオリンの弓から、それでもなめらかに十六分音符の音階が転がっていく。

「今度は、こんな風に弾けるようにしてみましょうか?」

 千鶴は、凛々子がヴァイオリンで示したことに、首を傾げた。

「すごく綺麗に音がつながってますけど……さっきの私とどう違うんですか?」

 湧いてきた疑問に、凛々子はいたずらっぽく微笑む。

「簡単よ。千鶴さん、さっきのハ長調の課題の最初の音を弾くつもりで構えてみて」

「最初の音……ですか」

 千鶴は机に腰掛けたまま、ハ長調の最初のCを弾くつもりでコントラバスを構える。千鶴のコントラバスの弓は、楽器の指板の端と胴体に立っている駒の間の弦の、真ん中よりやや上辺りに接していた。

 それを見て、凛々子も同じように音を弾くつもりでヴァイオリンを構え直した。

「私は、こう弾いていたの」

 凛々子のヴァイオリンの弓は、ほとんど指板の上に差し掛かる弦の位置に触れている。そのまま、凛々子はCの音だけをテンポ六十の十六分音符で刻んでみせた。雑音のないなめらかな音の反復が千鶴の手を動かした。

「それって、コントラバスでも……速いテンポの時は駒から離れた位置の弦で弾く、ってことですか?」

「正解。前にも少し説明したけど、柔らかい音を弾く時以外にも、速いテンポで弾かなきゃいけない時にも駒から離れた指板の近くの弦の位置で弾いた方がいいの。ヴァイオリンからコントラバスまで、弓で弾く弦楽器はみんな同じだから、ちょっと知っておいてね」

 凛々子の説明を聞きながら、千鶴はA線を押さえずに開放弦で、弓を指板の端近くを通る弦の位置に置いて先ほどの十六分音符を弾いてみた。弓が駒から離れるだけで、耳に障る雑音は明らかに減っている。

「あれ? 本当だ?」

「これ、オーケストラみたいに周りに弦楽器がいっぱいいる状況だと、周りの弾き方を見て合わせちゃうから、こういう時はこういう弓の位置、ってすぐ覚えられちゃうんだけど、吹奏楽だと自分がどう弾いたら周りの表現に合うか、っていうのを常に考えなきゃいけないわね。例えば」

 そこで凛々子は言葉を区切ると、空き教室の窓の外に目をやった。音楽室から、吹奏楽部が合奏で合わせている「ドリー組曲」の「子守唄」が微かに聴こえてくる。未乃梨(みのり)が吹いていると思われる穏やかな旋律が、微かに流れてくる。

「このフルートを千鶴さんがコントラバスで伴奏するなら、弓は指板の近くの弦で弾きたくならないかしら?」

 凛々子は、「子守唄」の旋律が届いてくる中を、もう一度いたずらっぽく微笑んで、千鶴の顔を見つめる。

「えっと……そうかも」

 机に腰掛けていて、立ってコントラバスを弾いている時より目線が低くなっている千鶴は、いつもより近い凛々子の顔から、恥ずかしそうに目を逸らした。


(続く)


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