♯246
未乃梨と凛々子の二人の間で思いあぐねる千鶴と、決意を固めた未乃梨と。そして、千鶴を見守ってくれる凛々子と。思いのトライアングルは行き先が見えず。
未乃梨の手を引きながら、千鶴は別のことを考えていた。
(コンクールが終わったら、発表会の練習が本格的に始まって、未乃梨のピアノとか凛々子さんのヴァイオリンとも合わせて。それから……)
そこまで考えを巡らせて、千鶴はたった今思い浮かべた二人の少女の名前にほんの少し落ち着きを失いそうになる。
(今、一緒に手を引いて帰ってるのは未乃梨なのに、他の女の子のことを考えちゃ、いけないよね。……未乃梨、カノジョになりたいって思ってる相手と手をつないでるのが嬉しいってさっき言ってたんだもの)
駅のホームでも、電車の中でも、未乃梨の小さな左手は千鶴の男の子より大きな右手の中に収まったままだった。一学期に、放課後に凛々子と手をつないで駅の近くまで帰ったことが思い出される。その時は、夕方で薄暗くなった階段を降りる時に、ヴァイオリンケースを肩に提げた凛々子の手を千鶴が預かったのが、手をつないだきっかけだった。
電車の中で、コンクールの練習のことや夏休みの課題のこと、最近家であったことといった他愛もないことを未乃梨と話しながら、千鶴は未乃梨と凛々子の二人とのことをぼんやりと考える。
(一緒に部活をやってる未乃梨と、学校の外で演奏する機会をくれた凛々子さんと。中学の頃から人気者で、いつも元気で可愛い未乃梨と、優しくて大人の女の人みたい綺麗で、ちょっと不思議なところのある凛々子さんと……)
そんなことを、千鶴は家の最寄り駅に着くまで、未乃梨と手をつないだままぼんやりと考えていた。
改札を出てから、千鶴が手を引いていた未乃梨の足がすっと止まる。
「未乃梨、どうしたの?」
「……ねえ、千鶴」
未乃梨は何か意を決したような顔をしていた。そのまま、いつもの帰り道の、建物や街路樹で日陰になったところを縫うように、今度は未乃梨が千鶴の手を引いた。
未乃梨の声は、どこか不安をはらみつつも、どこかで腹を括ったような、地に足のついたしっかりした響きがある。
「さっき、電車の中で、凛々子さんのこと、考えてたでしょ?」
「……うん。ごめん」
未乃梨に嘘を言うのはかえって傷付けそうに思えて、正直に千鶴は頷く。未乃梨は「やっぱり。でも、そう言ってくれて良かったわ」と微笑んだ。
「いいの。凛々子さん、今は千鶴の先生でもあるから」
未乃梨の言葉に、千鶴は驚いた。未乃梨は、不安や嫉妬を抱えてなお、凛々子のことを否定する気はないようだった。
「でも」と、未乃梨は続ける。
「千鶴のカノジョには私がなるの。凛々子さん、ヴァイオリンすっごく上手いし、多分音楽のことで私がかなわないことは沢山あると思う。それでも、千鶴を一人の女の子として好きな気持ちは、負けないから」
そう言ってみせる未乃梨の顔には、どこかしら不安がにじんでいるように、千鶴には思える。それでも、未乃梨の言葉には不安をなんとか支える自信があった。
「……ごめん。未乃梨にも、凛々子さんにも、どっちつかずで」
「いいの。返事、急がなくていいから。それでも、私は千鶴のことを好きでいるから」
大通りを抜けて、千鶴と未乃梨の家の分かれ道になる交差点に植えられた大きな街路樹の作る日陰に入ると、未乃梨は千鶴の方を振り向いた。
「私、全然自信とかないけど……凛々子さんには負けないから。それだけは、覚えてて」
未乃梨の表情は、どこか晴れやかですらあった。そのまま未乃梨は千鶴の手を放すと、「それじゃ、また明日ね!」と元気よく告げて、スクールバッグとフルートのケースを担ぎ直してから足早に街路樹の日陰を出て交差点を渡っていく。
「……うん。また明日ね」
やや遅れて千鶴が返事をする頃には、未乃梨の後ろ姿は交差点の向こうで小さくなっていた。
家に着いて自室で一息ついた千鶴の、机に上に置いたスマホに、凛々子からのメッセージの着信を知らせるアイコンが浮かんでいた。届いたのは未乃梨と帰りの電車に乗っていた時のようだった。
――お疲れ様。練習中の自撮り、見たわ。学校の机をバス椅子代わりにして座って弾くなんて、なかなか良いアイデアじゃない? あとは、ちゃんとコントラバスを鳴らせてるかどうかね
凛々子は、空き教室の机に座ってコントラバスを弾いていた千鶴に好意的なようだった。少し遅れて、凛々子からもう一通メッセージが千鶴に届く。
――明日、午前中なら時間が取れるから、千鶴さんの練習を見に行くわ。今の様子だと、色々発見もあったでしょうしね。楽しみにしてるわよ
凛々子のメッセージはそこで終わっていた。文面の端々から、千鶴の練習に関心がある様子なのが見て取れる。同時に、音楽と関係のない部分でも、凛々子はやはり千鶴に好意を抱いているのが、何とはなしに感じ取れるのだった。
(凛々子さんに褒められるのが嬉しいのは、演奏が上達してるって自分でも分かるから? 褒めてくれるのが凛々子さんだから?)
そんなことも、千鶴はぼんやりと考えてしまうのだった。
そろそろ終わりの見えてきた夏休みの課題の合間に、千鶴は以前に偶然見つけた「アンダンテ・カンタービレ」をスマホのアプリで開くと、イヤホンに繋がずに流す。音量を落とした飾らない語りかけるような旋律が、千鶴の部屋をうっすらと染めた。
(こういう曲、凛々子さんが聴いたら何て言うのかな)
そろそろ乾いたしのぎやすい暑さに変わりつつある夏の午後の空気に、千鶴は椅子の上で行儀悪く胡座をかきながら身を委ねていた。
(続く)




