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♯243

空き教室の机に座って試行錯誤しながらコントラバスを弾く千鶴。浮き上がる座って弾くことのメリットとデメリット、そして見えてきた新しい課題に考え込んでいる千鶴を、空き教室の外から見ていた未乃梨は……。

 記憶にある本条(ほんじょう)の演奏する姿を真似て机に腰掛けてコントラバスを弾くのは、初めて試したにも関わらず千鶴(ちづる)には妙にしっくりきていた。

 楽器のエンドピンを立って弾く時よりやや長めに出して、楽器本体もいつもより自分に向けて傾け気味にした、座って弾くコントラバスは、弓を持つ右手も弦を押さえる左手も、立って楽器を構える時よりずっと自由に動かせる。

 千鶴は思い立って、凛々子(りりこ)から出されているハ長調の四分音符の音階の課題を、机に腰掛けた構え方で弾いてみた。四分音符ひとつを空き教室の壁掛け時計の秒針に合わせて、千鶴は弾き始める。

 弾き始めてすぐ、千鶴は自分の音と両手の感触に驚いた。

(あれ? 弓も左手の指もいつもより楽だぞ? ……私、普段立って弾いてる時って、結構力んで弾いてたんだ?)

 千鶴の両腕から、不要な力が抜けていく。左手はコントラバス本体を支える役目から解放されて弦を押さえることとポジションの移動に注力できていた。弓を持つ右腕も、普段よりはるかに安定して構えられている楽器の弦を、自由に鳴らせている気がする。

 それでも、左手が高い位置に来る低い音域のポジションを動く時にやや窮屈な感じがしたり、楽器本体がいつもより手前に傾いていて弓を持つ右手に腕の重さを掛けにくくなっている関係で大きな音を少々鳴らしにくかったり、不都合というか不具合がないでもなかった。

(バスケのシュートとか、バレーボールのトスとかレシーブだって色んな方法があってそれぞれ一長一短だし、楽器の構え方も似たようなもんなのかな?)

 千鶴はやや強引に解釈して、ハ長調の音階の課題を続けた。左手の指と右手の弓が少しずつ動き軽快さを増して、手書きの四分音符で書かれた音階の課題を弾くテンポが上がっていく。

 いつしか、千鶴の弾くハ長調の音階は、壁掛け時計の秒針がひとつ動くのに四分音符を四つ、当初の四倍の速さで弾くことに成功していた。弓を動かす幅も最初からテンポを上げるたびに少しずつ狭めて、当初の四分の一ほどの幅で動かしてしまえば速いテンポで弾くのは思ったほど難しくない。

(本条先生、こんな風に弾いてたのかな……?)

 それでも、テンポを上げると今度は弓が弦を擦る時に軋むような雑音が出やすくなってしまっていて、千鶴に新たな課題が浮かび上がってくるのだった。

 他にも、今の千鶴に速く弾くことは一見出来ているとはいえ、例えば凛々子がヴァイオリンで速いパッセージをバレリーナの弾くような軽やかさとは程遠い、相撲取りが張り手を繰り返すような重々しい乱暴さを含んだ音になっているのが千鶴には気にかかってしまう。

 千鶴は、弓を腰掛けている机に置くと、コントラバスの肩に腕を置いて考え込んだ。

(うーん、本条先生、もっと綺麗な音で弾いてるだろうし……どうすりゃいいんだろう?)

 開けた窓からはそろそろ盛りを過ぎつつあるとはいえ、まだまだしっかり暑い夏の風が吹き込んでくる。千鶴は、制服の半袖のブラウスのボタンを二つほど、中の黒いキャミソールが見えるのも厭わずに外して考え込んだ。


 その千鶴の個人練習を、未乃梨(みのり)は空き教室の戸口からやや離れたところから、息を殺すようにして見て、そして聴いていた。

(弦バスをあんな風にチェロみたいに構えて、音階をあんなに速いテンポで弾くなんて……千鶴って、いつの間に弦バスであんなことができるようになっていたの!?)

 未乃梨は、千鶴がコントラバスで弾いていた音階が、空き教室の壁掛け時計の秒針を基準にしていたことに気付いていた。千鶴の弓は、秒針ひとつにつき音符を四つ弾くことに成功していて、しかもその音はトロンボーンかバリトンサックスが速いパッセージを吹いているときのような、力強く畳み掛けるような音だった。それが、未乃梨には信じられなかった。

 未乃梨はもう一度、空き教室の戸口から壁掛け時計を見上げる。そろそろ、音楽室での合奏練習が再開する時間だ。時計と千鶴の弓を見比べながら、未乃梨はあることに気付いた。

(メトロノームで六十の四分音符の時に、十六分音符で弾けるようになってる、ってこと……!? それも、あんなにずっしり響く音で!? やっぱり千鶴、弦バスを座って弾くことといい、誰かにテクニックを教わったんじゃ……?)

 未乃梨は足音を立てないように、空き教室の戸口から離れようとした。その時、千鶴が机に座って左半身で楽器を支えたまま、両腕を天井に向けてゆっくりとストレッチをするように伸ばすのが見えた。

 千鶴から十歩ほど離れた左斜め後ろにいる未乃梨の目に、ボタンを開けた制服のブラウスの前から黒いインナーに包まれた控えめに盛り上がった身体の線が見えて、未乃梨は思わず口元を手で覆う。

 未乃梨は、できるだけ足音を殺して空き教室の戸口を離れると、空き教室から数メートル離れた辺りで音楽室に向けて全速力で走り出した。

(千鶴の弦バスが上達するのは嬉しいけど……でも、でも)

 息を切らしながら、未乃梨は音楽室に入って席に着くと、自分のフルートを手に取った。合奏前に音出しをするには、息が落ち着くまで少しかかるだろうか。

(千鶴がどんどん私の知らない千鶴になってく……弦バスのことだけじゃない、高校に入ってから女の子らしくなっていって)

 空き教室から離れる直前に見てしまった、千鶴のボタンを外したブラウスの胸元からのぞく黒いキャミソールに包まれたふくらみも、未乃梨の目に焼き付いてしまっている。未乃梨は、もはや千鶴に向けた意識を持て余し始めていた。

(もうこうなったら、私、凛々子さんより先に、千鶴に……)


(続く)

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