♯239
お盆明けの個人練習で、子安から不思議な指示を他の木管のパート員と一緒に受ける未乃梨。
一方で、千鶴は凛々子から出された音階練習を弾くうちに、何か課題を見つけたようで……?
音楽室を出て、いつもの空き教室にコントラバスを運び込んで調弦を済ませると、千鶴は今まで通りに音階から練習を始めた。
凛々子からはイ短調の音階に加えて、ハ長調の音階も課題として千鶴に出されている。
ハ長調の音階の課題は、四分音符で書かれた音階を細かく上がったり下りたりを繰り返しながら、下はE線の開放弦から、上はG線をコントラバスのネックと胴体の繋ぎ目辺りのポジションで押さえる|F《エフ》まで届く広い音域を動くものだった。
(お盆の間はコントラバスを触ってなかったけど、、指とか動くかなあ)
やや不安になりつつ、千鶴は最初、遅いテンポでハ長調の音階を弾き始めた。弾きながら、千鶴は自分の音を細心の注意を払って聴いた。
(開放弦と同じ音、EとAとDとGは共鳴する……確か、Cみたく、開放弦と関係ない音でも共鳴が起こったりするんだっけ)
遅く大きな弓の運びで千鶴が弾くハ長調の音階は、ゆっくりと教室を満たしていく。よく聴くと、さほど大きな音を出していないにも関わらず、微かに洗濯機を回している音にも少し似た、空き教室の窓ガラスが震える雑音までが聴こえる。
ハ長調の音階の課題を一通り弾き終えると、千鶴はふと思いついた。
(今の音階の課題、凛々子さんのヴァイオリンみたいに速く弾いたらどうなるかなあ? ……いきなりは無理でも、バスケのドリブルみたいに、少しずつ速くしていくなら?)
千鶴は、一度ゆっくりと息を吸い込むと、コントラバスと弓を構え直した。
音楽室でのコンクールに向けた合奏練習は、盆休みを挟んだ割にはスムーズに進んだ。課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」では、未乃梨は表面上は特に問題もなく、最後まで自分のパートを吹ききった。
顧問の子安は、一度「スプリング・グリーン・マーチ」を通してから音楽室にいるコンクールで演奏する部員全員を指揮台に座ったまま見回す。
「皆さん、お盆の間はしっかり休めたようですね。ちゃんと疲労が取れた音でした。さて」
子安は自分に近いファゴット以外の木管楽器や、舞台上では指揮者から離れた最後列になるトランペットとトロンボーンのパートを順番に見た。
「楽譜通りに問題なく吹く、ということはもう皆さんができていると思います。では、ちょっと実験をしてみましょう。フルートとオーボエとクラリネット、あとアルトサックスの皆さんは起立してください」
子安に呼ばれたパートは、サックスの高森を除けば、やや戸惑った様子で立ち上がった。未乃梨も、子安の指示の意図が見えないうちのひとりだった。
(子安先生、どうして私たち木管パートを立たせるんだろう……?)
子安は、起立した高音の木管楽器のパートを見回すと、その全員に告げる。
「今から、課題曲のマーチをもう一度通します。その時なんですが、今立っているパートの人たちは、できるだけ楽譜を見ないで、私の指揮と周りの人の演奏を見て吹いてみてほしいんです」
そんな折、トランペットの上級生の女子が手を上げた。
「先生、うちらは立たなくて良いんですか? 最初にファンファーレあるし、主旋律もちょいちょい入りますけど」
朝に音楽室の倉庫からコントラバスを持ち出す千鶴を囲んでいたうちのひとりで、未乃梨はその顔を覚えている。裏表のなさそうなその上級生の明るい声に、今日の未乃梨は妙に引け目を感じてしまう。
「トランペット他の金管で旋律が回ってくるパートは、立って吹くと合奏のバランスが変わっちゃうので座っていて下さい。その代わり、できれば楽譜はあまり見ないで、他のパートや私の指揮を見ながら吹いて下さい。宜しく、お願いします」
「はーい」
トランペットの上級生が明るい声で返事をすると、子安は改めて指揮棒を掲げた。それを見て、未乃梨を含めた高音の木管楽器のパートも一斉に楽器を構える。
未乃梨は、フルートを構えながら音楽室全体を見回した。指揮者に近いフルートやオーボエやクラリネット、そしてアルトサックスがほぼ全員立って、大抵のことには動じなさそうなサックスの高森を除けば、子安の意図が分からず不思議に思ったり困ったりするような表情をめいめいが浮かべている。
(子安先生、どうして私たちに立って吹けって言い出したんだろう?)
指揮棒が下ろされて、トランペットとホルンが勢いよくファンファーレで飛び出ていく。未乃梨も、「スプリング・グリーン・マーチ」の中に、戸惑いながら入っていった。
ハ長調の課題を、千鶴は繰り返すうちに少しずつ速いテンポで弾いていった。弓を動かす幅は少しずつ狭くなり、弓を弦に押し付ける圧力は弱まって千鶴の弾くコントラバスの音は軽快さを増していく。
テンポを最初の倍近くまで上げた辺りで、千鶴は星の宮ユースオーケストラの演奏会のことを思い出していた。
(弦楽器の人たち、速いテンポはこんな風に弾いてたのかな? ヴァイオリンの凛々子さんとか、ヴィオラの瑞香さんとか、チェロの智花さんとか――)
千鶴が顔見知りの弦楽器奏者を幾人か思い浮かべる。その最後に、とある人物を思い出して千鶴はコントラバスを弾く手を止めた。
(――待てよ? コントラバスの本条先生はどうだったっけ?)
練習を見学に行った時に、個人所有しているらしい五弦のコントラバスを弾かせてくれた、三十代前半と思われるその女性の演奏する姿を、千鶴はありありと思い出した。
(本条先生、速い動きの時はあんまり身体を動かしてなかったような……? それに、なんだか楽そうに弾いてたけど……うーん?)
(続く)




