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♯237

お盆明けの最初の練習に学校に向かう途中、駅でぎこちなく鉢合わせる千鶴と未乃梨。

未乃梨には、千鶴に感じる凛々子の影が以前にもまして強まっているように思えて……?

 盆休みが明けて最初の吹奏楽部の練習に出かけようとして、千鶴(ちづる)は朝の駅で未乃梨(みのり)とはち合わせた。

「あ、未乃梨。……おはよう」

 スマホにイヤホンを繋いで、昨日たまたま音楽配信アプリで見つけたチャイコフスキーの曲を聴いていた千鶴は、イヤホンを外すと未乃梨にぎこちなく挨拶をした。

「おはよう、千鶴」

 自分と同じようなぎこちない返事をした未乃梨は、駅の改札近くでいつものようにフルートケースとスクールバッグを肩に提げて、所在なさげに立っていた。

(まさか、未乃梨って、私を待ってたのかな)

 千鶴はそれを尋ねる事もできず、未乃梨の先に立って改札を通る。

 未乃梨も、会った後挨拶のほかはほとんど口をきかずに、時折千鶴の結ばずにしっかり櫛で梳いた伸びかけのストレートの黒い髪や、制服のブラウスの襟周りに掛けられているイヤホンに視線を向けている。

 ホームにやってきた電車に乗り込んでから、未乃梨が何か大変な決心でもしたかのように、千鶴に尋ねてきた。

「ねえ、千鶴。朝、駅に来るまで何を聴いていたの?」

「ああ、これね」

 千鶴は悪びれずに襟周りに掛けたイヤホンをつまみ上げた。

「昨日、発表会で演奏するチャイコフスキーの『ワルツ』をスマホで聴こうとしてたら、同じ作曲家のちょっと気になる曲を見つけちゃって」

「……そう、なんだ」

 未乃梨は見上げていた千鶴の顔から視線を落として、小さくうつむいてしまった。

 千鶴は妙に気が沈んでいるように見える未乃梨に、イヤホンの片方を渡す。

「良かったら、聴いてみる? 『アンダンテ・カンタービレ』っていう、優しくて、素敵な曲なんだ」

「……うん」

 未乃梨がためらいがちにイヤホンの左耳側を手に取った。未乃梨が左耳にイヤホンを着けるのを見てから、千鶴は自分も右耳にイヤホンを着ける。

 千鶴は、スマホの画面に立ち上げたアプリの再生リストから、チャイコフスキーの弦楽四重奏曲の「アンダンテ・カンタービレ」を選んで再生ボタンをタップした。

 穏やかで何も飾らない、優しく語りかけるような旋律が、イヤホンを片方ずつ分け合う千鶴と未乃梨を柔らかく包みこんでいく。

(未乃梨、気に入ってくれるかな)

 そう思った千鶴は、未乃梨に目をやってから小首を傾げた。

 未乃梨は、千鶴に半ば背中の左側を向けるようにして、うつむきがちに電車の窓の外を見ていた。

 明るめの色のセミロングの髪が未乃梨の横顔を隠すように垂れて、髪を後ろでハーフアップにまとめた未乃梨のリボンも千鶴の顔を見上げるように上向いている。

 見えない未乃梨の表情を確かめようもなく、千鶴は紫ヶ丘(ゆかりがおか)高校の最寄り駅に着くまで、電車の中で話しかけることもできずに、イヤホンの片方を貸したままただ未乃梨の背中を見ていることしかできなかった。


 千鶴から手渡されたイヤホンを左耳に着けてから、聴こえてくる「アンダンテ・カンタービレ」に未乃梨は言葉を失った。

 イヤホンから流れてくるのは、未乃梨がほとんど聴く機会のない、弦楽器だけの室内楽で、低音域の薄さからしてコントラバスを含まない弦楽四重奏であることは何となく想像がついた。

(こんな地味だけど優しいメロディの曲、聴いたことも、演奏したこともないや……千鶴、私より音楽のことは詳しくないはずなのに、こんな曲を見つけてくるなんて)

 聴きながら、未乃梨ははたと気付いたことがあった。

(この曲、ヴァイオリンとかの弦楽器だけで演奏する曲だよね。千鶴、本当にこの曲を自分で見つけてきたの? 本当は、凛々子(りりこ)さんに教えてもらったとかだったりする?)

 千鶴に背中を向けるようにして、未乃梨は顔を隠した。今日は髪をまとめるときにサイドを残してよかったと、未乃梨はうつむいた顔をカーテンのように隠す髪に少しだけ安心する。

 イヤホンから聴こえてくる「アンダンテ・カンタービレ」は、確かに優しいメロディの曲ではあった。それだけに、未乃梨にはそれを千鶴が聴かせてくれたことが、どうにも辛く感じる。

「アンダンテ・カンタービレ」の、主旋律を奏でるヴァイオリンの音が、凛々子の大人びた風貌や立ち振る舞いを思い出させて、それが未乃梨の胸を締め付けてくるような錯覚すら覚えてしまうのだった。

(千鶴が、私の知らないことをたくさん見つけてきて、また千鶴が変わっていってしまったら……千鶴は私のそばにいてくれるの? また、私と手をつないでくれるの?)

 電車が紫ヶ丘高校の最寄り駅に近付く頃、イヤホンから聴こえる「アンダンテ・カンタービレ」は夢見るように消えていくヴァイオリンと、それにヴェールを纏わせるように重なる弦楽器の静かな和音で締めくくられた。

 やっとのことで、未乃梨は顔を上げて左耳に着けたイヤホンの片方を千鶴に返す。その千鶴の顔を改めて見ると、未乃梨は足がすくむような思いに襲われた。

 千鶴は、この日も髪を結んだりせずにノーセットで流している。盆休み前とは違い、しっかり髪を梳かして千鶴なりにまとめたらしいその黒髪は、未乃梨のセミロングにそろそろ迫る長さになっていた。

(千鶴、いつの間に髪がこんなに伸びて……?)

 未乃梨の中で、伸びてきたストレートの黒髪をまとめずに流す長身の千鶴と、その傍らに自分より少しだけ背が高い、緩くウェーブのかかった背中まである長い黒髪の凛々子が並び立つ姿が容易に想像できた。

(千鶴、いつかは凛々子さんみたいにロングにしちゃうの? 私の知らない、千鶴になってしまうの?)

 戸惑った顔を隠すように、未乃梨は千鶴より先に、高校の最寄り駅のホームに下りていった。


(続く)

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