♯236
スマホの音楽配信アプリでチャイコフスキーの「ワルツ」を聴こうとして、全く別の曲を聴いてしまう千鶴。
その曲を聴きながら、千鶴は色々なことに思いを馳せて……。
部活が再開する前日の午後、千鶴は夏休みの課題に一区切りをつけると、自室の勉強机に向かったまま、「うーん」と声を出しながら伸びをした。
(面倒そうな数学と英語と古文は何とか片付けたし、あとは歴史と理科系かな)
まだまだ暑い時期で外を出歩く気にもなれず、本や漫画を読んだり動画を観たりする気になれず、千鶴はスマホの音楽配信アプリを立ち上げて発表会の曲を探した。
(確か、クラシックの曲ってこっちにも色々入ってたっけ)
カタカナで「ヴィヴァルディ」や「チャイコフスキー」と検索ウィンドウに書き込むだけでたくさんの候補が挙がるそのアプリで、千鶴はそろそろ見慣れてきた英語ではなさそうなアルファベットの並びを探す。
千鶴はその中で、動画の見出しのアルファベットが途中で切れているものに目を留めた。
(Tchaikovsky、って書いてチャイコフスキーって読むんだっけ。ええっと、Stringなんとかって書いてあるから、これって発表会でやる曲かな?)
その動画のサムネイルには、四人の弦楽器奏者が半円を描くように並んで演奏しているような画像が写っている。千鶴は大して深く考えることもなく、スマホにイヤホンを繋ぐとその動画をタップした。
その動画は昔の演奏家のレコーディングした音源をオンラインで公開しているものらしく、映像はレコードかCDなどの古いメディアのジャケットを静止画として載せているのか動かない。流れてくる曲は、千鶴が知っているチャイコフスキーの曲ではなかった。
(あれ? これ、練習してる「セレナード」じゃない……? 演奏してる人数も少なそうだし、楽器の音も何か全体的に高いし?)
千鶴はそれでも、そのごく少人数の弦楽器のアンサンブルが演奏するチャイコフスキーの未知の曲を聴き進めた。あまりに素朴で、まるで飾った様子のないその旋律を、千鶴は勉強机の椅子でだらしなく脚を組んだまま聴いた。
そのゆっくりとしたテンポの、未知のチャイコフスキーの曲は、千鶴には耳を引き付ける華やかな響きも、わくわくと興味を惹く展開もないように思われる。それでも、千鶴はその旋律から耳を離すことができなかった。
(不思議な曲……初めて聴くのに、私の中にすうっと入ってくるみたい)
七分ほどの決して短くはないその曲を、千鶴は時間を忘れて聴いた。一度聴き終えてからまた聴きたくなって再生ボタンをタップして、ということを千鶴は何度も繰り返す。冒頭に現れて曲全体を支えているらしい、語りかけるような旋律は、二回目の再生を聴き終えた辺りですっかり千鶴の耳に残ってしまっていた。
何度目かの再生で、千鶴はイヤホンで聴いているその旋律をハミングで小さく歌っていた。椅子にもたれかかっていた背筋はいつしか真っ直ぐに正して、だらしなく組んでいた脚は真っ直ぐ前に揃えて床に足元を着けていた。
千鶴は、何度目かの動画の再生が終わると、自分に居住まいを正させたその曲のタイトルを確かめた。
「String Quartet No.1……弦楽器の……四重奏の第一番? その中のアンダンテ……カンタービレって読むのかな? なんだこりゃ?」
アルファベットだけで書かれた曲の情報ではまるで書いてあることの見当が付かず、千鶴は思わず勉強机の横の本棚を見た。以前に凛々子と訪れた「ツジモト弦楽器」で買った「西洋音楽の自由時間」が目に入って、千鶴はそのページをめくる。
「西洋音楽の自由時間」の巻末に置かれた索引で、その曲を紹介するページは簡単に見つかった。
(チャイコフスキー……弦楽四重奏曲第一番……これか?)
該当のページには、こんなことが書かれていた。
……三十一歳の頃、当時モスクワ音楽院で教鞭を執っていたチャイコフスキーは、音楽院の創立者ルビンシテインに自作曲による演奏会を開くことを勧められた。当時のチャイコフスキーが採取して回っていたロシアやウクライナの民謡の成果と、彼の内向的で繊細極まる性格が結びついて生まれた第二楽章の「アンダンテ・カンタービレ」の旋律は、後年この曲の実演を作曲者の隣の席で聴いていた文豪トルストイの涙を誘うこととなった……
(トルストイ? 現代文の先生が何か授業中の雑談で言ってたような?)
過ぎ去った歴史の彼方で、千鶴が何度も繰り返し再生して聴いた「アンダンテ・カンタービレ」が、音楽家ではない別の分野の著名らしい人物と繋がっているらしいことが書かれている。
(……発表会の合奏で弾く「ワルツ」も、もしかするとそういう背景とかあったりするのかな? 曲がそうじゃなかったとしても、チャイコフスキーって人がそういう色んなところで誰かと繋がってるみたいな? ……そういうこと、演奏するときにどっかで考えた方が良いのかな?)
にわかに、千鶴の思考が色々な方向に伸び始めた。
(これから、そういうことも勉強しなくちゃいけないってこと? ……現代文の先生が雑談で喋ってた人と関係ありそうなことが出てくるってことは、楽器を弾くのに学校の勉強もちゃんとしなきゃいけないってこと?)
千鶴のとりとめのない思考は、色々な方向に進んでいた。
(……暇なときに、近所の図書館にでも行ってこよっかな)
未知のチャイコフスキーの曲を聴きだしてからいつの間にか四方八方に思考を広げていたことに気付いて、千鶴は誰も見ていない部屋の中でストレートの黒髪が伸びかけた頭を掻いた。
(続く)




