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♯233

お互いに何も言い出せず、家路についた千鶴と未乃梨。未乃梨の千鶴への思いだけは積もる一方で。

その日の夕方、凛々子はスマホに届いたとあるメッセージを目にして……?

 ホームに着いた電車に乗り込んでから、千鶴(ちづる)未乃梨(みのり)は再び言葉少なになってしまった。

 千鶴は、未乃梨に話したことをひたすら頭の中で考えていた。

(同じ音で、役割が変わるってどういうことなんだろう。植村(うえむら)先輩は「どこかで別の調に変わってると思う」って言ってたけど、それと関係あるのかな? 未乃梨が分からなさそうってことは、やっぱり別の誰かに相談した方が、いいのかな)

 未乃梨は、高校に入ってから変わりつつある千鶴に、まだ戸惑っていた。

(千鶴、高校で同じ吹奏楽部に入ったと思ったら、知らないうちに凛々子(りりこ)さんに教わってて、初めての本番は部活じゃなくて凛々子さんとか外部の人も混ざった少人数の演奏で、私の知らないところで色んな勉強を進めてて……)

 そんな未乃梨を、千鶴は横目で見た。未乃梨の、電車の外を流れているいつもの路線沿いの風景を見る表情には、どことなく不安そうな色が混ざっているようにも感じられる。

 千鶴は、未乃梨に声を掛けたくても、それははばかられた。

(未乃梨、私に好きって言ってくれてるのに、私はそれに返事もできていない……。それなのに、未乃梨と話すことって、本当は残酷なんじゃないだろうか)

 思いあぐねる千鶴の耳に、妙に電車の音が大きく聞こえる。無言で過ごすいつもの学校帰りの電車は、千鶴には今日に限って妙に長く感じられるのだった。


 電車を降りてからも、千鶴と未乃梨は特に言葉を交わすこともなく、真夏の昼下がりの陽射しが照らす家路についた。無言の二人の間を、そろそろ盛りを迎えつつある蝉のがなるような声が埋めている。

 未乃梨は、せめて千鶴と手をつなごうとして、できなかった。

 一緒に日陰から日陰へと渡るように隣を歩いてくれている千鶴は、未乃梨に遠慮してか、わずかに距離を取っていた。

 いつもより靴の幅ひとつ分ほど、手をつないだり腕を組んだりするには歩み寄らなければいけないほどには、千鶴と未乃梨の距離は離れている。

 別れ道になる交差点に差し掛かって、千鶴はやっと口を開いた。交差点の信号は、ちょうど赤になったところだった。

「未乃梨、その……最近、なんて言うか……色々とごめんね」

「ううん。……私も、凛々子さんのことは嫌いって訳じゃないし」

 そう言ってみせる未乃梨は、どこか自信なさげにうつむいている。電車に乗ってから、千鶴と未乃梨は視線すら合わせられていなかった。

 未乃梨はうつむいたまま、肩に提げたスクールバッグとフルートケースを担ぎ直す。

「私、やっぱり千鶴のこと、好きだから。そのこと、忘れないでね」

「あ、未乃梨――」

「千鶴は謝らないで。これは、私がしたいからするの」

 ほんの少しの間、人通りの途絶えた交差点で、未乃梨が千鶴の腕の中に飛び込むように近寄って、千鶴の腰に手を回す。そのまま、未乃梨は爪先立って、自分より顔ひとつ分ほど背の高い千鶴の耳元で囁いた。

「千鶴が私のことを好きじゃなかったとしても、いいの。だから、今はこうさせて」

 未乃梨は、しおれそうな声を必死で張って、やっとのことで千鶴に囁いている。その震える小さな声に、千鶴はかえって未乃梨を抱き返すこともできず、両腕を宙に浮かせたままでいた。

「……知ってる。返事、まだ出来そうにないけど、いいの?」

「いいの。千鶴が本当に納得して、誰かに好きだって言うまでは、時々でいいから、せめてこうさせて」

 未乃梨の言葉が途切れて、その両腕が千鶴の腰から解かれた。千鶴の耳に蝉の声が急に流れ込んでくる。未乃梨が千鶴から離れてるすぐ後で、交差点の信号は赤から青に変わった。

「それじゃ千鶴、またね」

 未乃梨はやや語気を強めて、千鶴を振り返ることもせずに信号の色が変わったばかりの交差点駆け足で渡っていく。その後ろ姿を、千鶴は何も言えずに見送ることしかできなかった。


 帰宅してから、未乃梨は自室のベッドにスクールバッグとフルートのケースを置くと、床にへたり込んだ。

(父さんも母さんも、仕事で出かけててよかった。私、きっとひどい顔をしてるから)

 落ち着かない呼吸を何とか押さえて、未乃梨は少しふらつく足で階段を下りると、風呂場に入ってシャワーを浴びた。

 先ほど千鶴に抱き付いたことが急に恥ずかしく感じられて、未乃梨はシャワーの湯温を下げ続けた。とうとう冷水だけになってしまったシャワーを浴びても、未乃梨の顔や身体の熱さは消えない。

(私、……何てことをしちゃったんだろう)

 風呂場から出て身体から水気をすっかり拭き取っても、真っ更な普段着のTシャツとショートパンツに着替えても、自分の部屋に戻ってエアコンを入れても、未乃梨の顔や身体にわだかまる熱さは消えてはくれなかった。



 その日の夕方、自室でその日の練習を終えた凛々子は、駒に消音器を挟んだヴァイオリンを下ろすと、ふうっと息を吐いてからゆっくりと伸びをした。

(ブラームス……あと一年以上、どこまで仕上げられるかしら)

 目の前の譜面台に置かれた協奏曲の楽譜に目をやると、凛々子は顔を引き締めた。その、大きめの譜面台に置かれた楽譜の隣に時計代わりに置いておいたスマホが、メッセージの着信を音もなく知らせる。

「あら」と凛々子は思わず声に出した。メッセージの差出人は千鶴だった。

(相談ごと? ……ヴィヴァルディの「調和の霊感」で?)

 凛々子はメッセージを開くと「ふーむ」とやや長い言葉にならない声を漏らす。

(千鶴さん、妙なことに気付いたのね……これは、教え甲斐があるけれど、私の手に余ることでもあるわね。でも、例えば、星の宮ユースの吉浦(よしうら)先生とか、菅佐野(すがさの)フィルの本条(ほんじょう)先生なら……?)


(続く)



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