♯232
駅のホームで、ぎこちなく話し出す千鶴と未乃梨。
「調和の霊感」で千鶴が見つけてきたことに、未乃梨は心穏やかではいられず……!?
音楽室を出てから紫ヶ丘高校の最寄り駅の改札を通るまで、しばらく千鶴と未乃梨は無言で過ごしてしまった。
千鶴の結んでいない伸びかけのストレートの黒髪は、未乃梨にはどうしてもこの場にいない凛々子を思い出さずにはいられなかった。
(千鶴、凛々子さんみたいに髪を伸ばしちゃうのかな)
ホームに吹く夏の真昼の風に、千鶴の黒い髪と未乃梨の明るめの色の髪が揺れる。未乃梨よりはまだ短いはずの千鶴の髪は、高校に入ったばかりの頃の彼女の男の子めいた印象をかなり薄めてしまっていた。
二人がホームのベンチに座って電車を待つ間、千鶴が未乃梨からの視線に気付いて、「どうしたの?」と不器用に微笑む。
「……やっぱり、髪の毛結んでないと、変、かな」
ためらいがちに尋ねる千鶴に、未乃梨は慌てて打ち消した。
「ううん、そんなことないよ! 千鶴、伸ばしてるのも、その……すごく、似合ってるし」
未乃梨は、尻すぼみに声を小さくしてから、「あ、あの、そういえば」と話題を変えた。
「最近、コンクールの練習、結構上手く行ってて、次の県大会を通ったら関東大会だし、その、千鶴にも県大会楽しみにしてほしい、っていうか」
「未乃梨、気合い入ってるね? 私も発表会の練習、頑張んなきゃね。未乃梨に伴奏してもらう曲もあるし」
発表会、という千鶴の口から出た単語を耳にして、未乃梨は弾かれたように顔を上げた。
「そういえば、九月だっけ。千鶴、そっちの練習はどうなの?」
「音階練習の課題をいくつかと……『オンブラ・マイ・フ』の他に合奏の曲が二つで、何とかなりそうかな。あ、そうだ」
千鶴は何かを思い出したように、肩に提げたスクールバッグからパート譜を取り出した。最初のページに書かれたVivaldiという作曲者名や見慣れないヘ音記号の譜表に、未乃梨は目を泳がせた。
「発表会でやる合奏の曲で、『調和の霊感』っていう曲なんだけど、こことここのフレーズ、どっちも短調の何か変わったやつっぽいじゃない?」
「変わったやつ……旋律的短音階、ってこと?」
「そうそう、それそれ」
千鶴が示したパート譜の二つの箇所のうち、片方は最初の楽章の冒頭でAの音から、もう片方は同じ楽章の中ほどからでDの音から始まっている。
千鶴は後者の、Dから始まる方を指差した。
「こっちの方、練習してたら最初とおんなじようにラ・ソ・ファ・ミ・レ・ド・シ・ラ、って読めそうな気がしてさ」
「え……?」
未乃梨は、千鶴が言い出したことに面食らった。千鶴が「ラ」と読んだ音は、未乃梨には馴染みのないヘ音記号の譜表ではあったが、どう見てもDの音だった。
(D・Cis・H・A・G・F・E・Dでしょ? 「レ・ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ」じゃないの!?)
未乃梨は怪訝に思いながら、千鶴に尋ねた。
「弦バスって楽譜通りに音符を読むんでしょ? クラとかサックスみたいに楽譜に書いてある音と読む音が違うみたいなこと、しないんじゃ?」
「前に、そのことで植村先輩に聞いてみたら、音にはお芝居でいう役者さんの名前と役の名前みたいなのがあって、AとかDが役者の名前で、ラとかドが役の名前、って言ってた。合唱部なんかはそうやって勉強するんだって」
「植村先輩、そんなこと言ってたの? Aとラで違う意味になるなんてことを?」
未乃梨は更に面食らった。
千鶴が相談していた相手が凛々子ではないことには何となく安心してしまったが、千鶴が誰かの助けを借りているとはいえ、未知の何かを知ろうとしていることに、未乃梨はどうしても置いていかれてしまうようなやりきれなさすら感じてしまう。
千鶴は、伸びかけの黒いストレートの髪を掻いた。
「私もその辺よく分かんなくてさ。植村先輩はこれから追い追い勉強してけばいいよ、って言ってたんだけど」
「ねえ、千鶴。今行った楽譜の変な読み方、誰かに教わったりしてないよね?」
「そうだけど?」
小首を傾げる千鶴の顔を、未乃梨は真剣な表情で見上げる。
「そういう読み方、私は何とも分からないけど……別の人に話しちゃダメよ? 楽譜のルールが分からない人みたいに思われちゃうから」
「え? そうなの? でも、植村先輩が――」
「相談するなら、植村先輩だけにして。じゃないと千鶴も混乱するし、良くないと思うの」
未乃梨はいつになく真面目な顔で、千鶴の出したパート譜を見つめている。その未乃梨の様子に、千鶴は挙げなかった名前を幾人か頭に浮かべた。
(これ、他の人に相談するならどんなことを話してくれるんだろう? この前プールで会った真琴さんとか、オーケストラの見学で会った本条先生とか、それこそ凛々子さんとか?)
千鶴の頭には他にも、初めての本番で一緒に弾いた瑞香や智花といった、会ったことのある面々が次々に浮かんでいた。その顔振れに、千鶴ははたと思い当たることがあった。
(あれ? 相談してみたいって思った人、吹奏楽部にいない弦楽器を弾く人ばっかり? ……部活じゃ、植村先輩以外でこういう相談って無理なのかな)
顎に手を当てて千鶴は考え込んだ。
その千鶴の横顔を、未乃梨は息を詰めて見つめることしかできなかった。
(未乃梨、さっきの楽譜の変な読み方のこと、まさか凛々子さんに相談しようとか……思ってないよね? ……千鶴、やっぱり、凛々子さんに教わるようになってから、どんどん変わっていってる……?)
(続く)




