表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
230/363

♯230

伸びてきた髪を結びもせずに部活にやってきた千鶴を注目する吹奏楽部員たち。

変わっていく千鶴の向こうに、凛々子の影を感じざるを得ない未乃梨は……。

 朝の音楽室に着くと、千鶴(ちづる)は顔見知りの吹奏楽部員から少しばかり不思議な目で見られた。

 真っ先に声を掛けてきたのは、サックスの高森(たかもり)とフルートの二年生の仲谷(なかたに)だった。

「おはよう。江崎(えざき)さん、今日はノーセットなんだね? しっかし、長めの髪型も似合うなあ」

 高森が目を丸くして、仲谷が千鶴に後ろから近寄るとしげしげと千鶴の髪を見つめながら顎に手をやった。

「このサラサラ感、かなり羨ましいねえ。江崎さん、シャンプーどこの使ってるの?」

 千鶴はボブと呼ぶにしてはいささか長いストレートの黒髪に恥ずかしそうに手をやると、自分より顔ひとつ背の低い二人の二年生の前で少しばかり頬を染める。

「あの、高森先輩も仲谷先輩もそんなに近寄らないで下さいね? この長さにしたのって初めてだし、髪のケアなんて普通に洗ってリンスするぐらいで」

「これでこんな綺麗なストレートかぁ。よし、江崎さんカラーリングしようよ?」

(れい)、それはもったいないでしょ。ここは大事に伸ばしてうちのパートの小阪(こさか)さんみたくセミロングでハーフアップとかさ」

 勝手なことを言い合う二年生に、千鶴はたじたじと後退りをした。

「あの、今日は別に特別なことは何にもなくて、寝坊しちゃって寝癖も特についてなかったからセットしないで出てきちゃっただけですからね?」

 言い繕いながら、千鶴は二年生たちの向こうで合奏準備をしている部員の中から、自分に忌々しそうな視線を向けていることに気付いて、ばつの悪そうに首筋を掻いた。まだ慣れない伸びてきた髪の毛先が時折肌を刺してきて、どうにも座りが悪い。

 忌々しそうに視線を向けてきたのは、テューバの蘇我(そが)だった。

「何よ、髪型を変えただけでいい気になって――」

「はいはい、他人の外見に僻むのは義務教育まで。いい加減にしないと部活終わってからコスメ買いに連れ出すからね?」

「いいねえ。蘇我さんでリップとか色々試そうか」

 周りに聞こえる声で嫌味を言った蘇我を、ホルンやバスクラリネットを準備していた女子の上級生が囲んで黙らせる。蘇我は逃げ出すようにテューバを取りに行って、植村(うえむら)に呆れられていた。

「全く。蘇我さん、今日も説教部屋行きになりそうだわ」

 植村は肩をすくめながら、フルートパートの近くで二年生たちに囲まれる千鶴に片目をつむってみせた。

 千鶴は、面白がる上級生たちをよそに、譜面台を立てたり椅子や大型打楽器を運んだりしている未乃梨(みのり)にふと気付いた。

 掛けるべき言葉が見つからないまま、千鶴はコントラバスを運び出す途中で未乃梨に声を掛ける。

「未乃梨。……それじゃ、コンクールの練習、頑張ってね」

「うん。……千鶴、あのね」

 意を決したような未乃梨の声に、千鶴は立ち止まる。

「ん、どうしたの?」

「今日、……一緒に帰ってもいい?」

「いいよ。いつものことじゃん」

「……ありがと。じゃ、後で」

 未乃梨は爪先で立って、自分よりずっと背の高い千鶴の耳元で囁くように告げると、フルートの席に戻っていく。

 その後ろ姿を見送ると、千鶴はケースに収まったコントラバスを支えながら音楽室を出ていった。

(未乃梨、どうしちゃったんだろ)

 千鶴はぼんやりと未乃梨のことを考えながら、大きな楽器を抱えて空き教室に向かっていった。


 その日の合奏練習を、未乃梨はなんとも言えない複雑な気分で過ごした。

 明白に改善された低音パートの、厚かましさから抜け出しつつある蘇我のテューバの音に、どうしてもコンクールメンバーに含まれていない千鶴がいたら、ととりとめのないことを未乃梨は思ってしまうのだった。

 課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」はともかく、どのパートも繊細な演奏を求められる自由曲の「ドリー組曲」では、どうにも「千鶴が弦バスで参加していたら」と、未乃梨は空想せざるを得ない。

 休憩時間に、未乃梨は音楽室を出て、そこかしこで個人練習をしているコンクールに出ない初心者の一年生の部員の音の中から、一際低い音をたどって空き教室の戸口までやってきた。

 そこでは、チャイコフスキーの「セレナード」のワルツを千鶴が練習していた。ワルツの音の運びに合わせて、千鶴の結んですらいないストレートの伸びかけの髪が揺れてきらめく。

 「ドリー組曲」の「キティ・ワルツ」とどこか似ているようで違うようでもある三拍子の伴奏の運びを、未乃梨は空き教室の戸口で聴いていた。

 ふと、コントラバスの音が止んだ。千鶴が自分の背丈より大きな弦楽器を身体に立てかけたまま、未乃梨を振り返る。

「あ、お疲れ様。今、休憩時間?」

「うん。……ちょっと、外の空気を吸いたくなっちゃって」

「……そうなんだ」

 千鶴はコントラバスを床に寝かせて弓を緩めると、ハンカチで首筋の汗を拭う。今日も制服のリボンタイは着けずに登校していて、半袖のブラウスの開いた襟元やスカートから出した裾が未乃梨には眩しい。

「……ねえ、千鶴。来年のコンクール、一緒に出ようね」

「どうしたの? いきなり」

「連合演奏会の時と違って、……コンクールの合奏は千鶴がいなくて淋しいから」

「そんな。……私、コントラバス初めて、まだ四ヶ月ちょっとだよ?」

 困ったように千鶴の笑顔を、未乃梨ははっと見つめた。

「……でも、……ううん、ごめん、何でもない」

 未乃梨は千鶴から無理矢理に視線を外して、振り返りもせずに空き教室を出る。

「もうすぐ、休憩時間終わっちゃう。それじゃ、後でね」

「あ、……うん」

 未乃梨は、呆気に取られた千鶴を置いて廊下を早足で進んだ。音楽室に向かいながら、未乃梨は千鶴の明らかに早いコントラバスの習熟に考えを巡らせる。

(千鶴の弦バスの上達、きっと凛々子(りりこ)さんに教わってることと無関係じゃない……でも)

 休憩時間が終わるより七分ほど早く、未乃梨はフルートパートの自分の席に座ると、目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。

(千鶴が早く上達するのは嬉しいけど……それが凛々子さんのお陰なの、ちょっと辛いよ。私が、千鶴と凛々子さんに置いていかれちゃうみたいで)

 未乃梨の脳裏に、ずっと前に千鶴のコントラバスと凛々子のヴァイオリンがバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を合わせている姿が浮かぶ。

(千鶴、……いつかは部活じゃない場所に演奏で出ていくようになっちゃうのかな)

 冷たい淋しさが、未乃梨の胸の奥を締め付けていた。


(続く)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ