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♯228

お好み焼き屋で植村から練習のことで思いがけないアドバイスを受ける千鶴。それを生かすには、未乃梨や凛々子とちゃんと話し合うことも必要になりそうで……?

(デー)から始まるのに『ラ』から始まるように聴こえるフレーズ、ねえ」

 植村(うえむら)はグラスに入った麦茶をひと口飲んでから、千鶴(ちづる)に尋ねる。

「うーん、楽譜を見れば一発なんだけど……江崎(えざき)さん、そのDから始まるフレーズ、他に何か変わったところとか、なかった?」

「ええっと……Dの次がCis(ツィス)で、その次が(ハー)だったような?」

 箸を持った手を止めて、千鶴は小首を傾げた。植村が「ふんふん」と何やら頷く。

「江崎さん、その曲って、最初の音は?」

「ええっと……確か、(アー)です」

「ふーむ……それって多分、どこかで別の調に変わってると思う。その辺、今度仙道(せんどう)さんに練習を見てもらう時に聞いてみるといいかも」

 千鶴は頭の上に疑問符を浮かべたまま、茶碗の白米に乗った牛すじを口に運んだ。

「でも、Aの音って、ラの音のことじゃ?」

「そう思うじゃん? 実はちょっと違うんだよねえ」

 植村は豚キムチ玉の次のひと切れを取り皿に上げると、卓上の一味唐辛子を振った。辛そうな香りが微かに千鶴にも漂ってくる。

「合唱部なんかだと、今江崎さんが言ったみたいなことを部活でも勉強するんだけどね。Aは必ずしも『ラの音』じゃない、って」

「……なんか、面倒くさそうですね」

 眉をしかめそうになる千鶴に、植村は一味で鮮やかに赤っぽく彩られた豚キムチ玉を口に運ぶ。

「そうでもないよ。お芝居で役者さんの名前と役の名前って別じゃん? それと一緒。AとかDが役者の名前で、ラとかドが役の名前、って感じ」

「Aが役者さんの名前で、ラが役の名前、ですか?」

 千鶴は、頭の中でこんがらがる、植村の話を聞きながら味噌汁を啜った。香りの強くてあまり見たことのない色の濃い味噌汁の、意外に塩気のきつくない味付けが妙に舌に馴染む。

「それって、……どうやってわかるんです? 音の役割、っていうのかな」

「実は、江崎さんがDの音を『ラ』として聴いた、っていうのがその答えなんだよ。同じ音で、同じ曲でも、調が変われば役割も変わっちゃうってこと」

「……何だか、よくわかんないです」

 千鶴は牛すじ玉をもうひと切れ取ってタレの付いた白飯の上に乗せた。茶碗の中の白飯は、もう半分も残っていない。

「まあ、江崎さんも四月に弦バス始めたばっかりだし、追い追い勉強してけばいいよ。仙道さんとか小阪(こさか)さんとか、教えてくれそうな人は周りにいっぱいいるしね」

「……凛々子(りりこ)さんと、未乃梨(みのり)、かぁ」

 千鶴は残り少なくなった茶碗の中身を口に運びながら、少しだけ渋い顔をした。鉄板の上の牛すじ玉もそろそろ残り少ない。

「……あ、ご飯おかわりしようかな」

「あたしも追加頼みたいし、お店の人呼んじゃうね。すいませーん」

 植村はメニューを引っ張り出すと、厨房に向かって明るい声を上げた。



 帰宅した千鶴が持ち帰ったパックの包み二つを見て、母親は「まあ」と喜色のにじんだ声を出した。

「とん平焼きだなんて珍しいわね。あら、煮込みも買って来てくれたの?」

「今日、部活の先輩に連れてってもらったお店で、サービスだって渡されたの」

「いいお店じゃない。お昼我慢して良かったわ。ありがと、千鶴」

 上機嫌の母親を尻目に、千鶴は自室に戻って着替えると、椅子に座り込んでスマホのメッセージを見直した。

(あ。未乃梨のメッセージ、まだ返事してないや)


 ――千鶴、昨日と今日、いやな気分にさせてごめんなさい。発表会の練習、頑張ってね

 ――返事、遅れてごめんね。未乃梨も、気にしないで。コンクールの県大会、もうすぐだしそっちも練習頑張って


 だいぶ時間が経って、夕方の手前ぐらいの時間になってから、未乃梨から返信があった。


 ――メッセの返事、ありがとね。私も、あの時大きい声を出しちゃってごめん。コンクールが終わったら、発表会の練習、よろしくね


 千鶴は未乃梨から送られた文面を見て、ふうっと溜め息をついた。

 学校への行き帰りでも練習でも、顔を合わせていなかった未乃梨の様子が千鶴には気にかかっていた。

(……私、未乃梨の前で涙が出ちゃったの、あれが初めてだし、未乃梨も凛々子さんも気にしてるよね)


 さして間を置かずに、未乃梨からのメッセージが続いて届く。その内容に、千鶴は息を飲みかけた。


 ――私、千鶴のカノジョになるの、諦めてないから。返事、ずっと待ってます


 メッセージの文面の向こうで未乃梨が悩む姿が見えたような気がして、千鶴はスマホの画面から目を背けた。

(でも、私にとってカノジョになってほしい人、って……今まで、誰かと付き合ったことなんてないのに)

 お好み焼き屋で植村が話していたことと同じくらいかそれ以上の戸惑いが、千鶴の中に居座っていた。

 植村の話していたことは何度か説明を受けて勉強を進めれば何とか先に進めそうな予感はするものの、未乃梨や凛々子との一件は解決の糸口すら、千鶴にはまだ見えそうにない。

(明日が土曜日で、今週最後の練習だし、未乃梨と顔だけでも合わせなきゃ……でも、未乃梨と何を話せばいいの?)

 千鶴の絡まった思いは、まだ解けそうにないのだった。


(続く)

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