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♯224

 その日、未乃梨(みのり)は帰宅してすぐ、自室のベッドにぐったりと座り込んだ。

 スクールバッグとフルートケースを机に置くと、未乃梨は両親が出払った平日の昼間の、誰もいない自分の家の静かさの中で、今日の練習が終わったあとのことを思い返す。

(私も、千鶴(ちづる)が好きで、凛々子(りりこ)さんも、千鶴が好きで。千鶴はどっちに返事をするか、まだ決められなくて。……そんな時に、凛々子さんと言い争って)

 その結果、千鶴を泣かせてしまったことも、未乃梨の中には重く残っている。

(私、昨日から千鶴に嫌な思いをさせてばっかりだ……)

 ゆっくりと大きく溜め息をつきながら、未乃梨は帰宅してから着替えていなかった制服のブラウスとスカートを脱ぎ捨てて、普段着のTシャツとショートパンツに着替える。少しだけ身軽になれたような気がして、未乃梨は伸びをした。

(切り替えなきゃ。千鶴はまだ、私にも凛々子さんにも返事をしてない。っていうことは――)

 未乃梨は、自分の身体から少しだけ重だるさが抜けたような気がした。



 翌日の練習は、千鶴(ちづる)未乃梨(みのり)と駅で待ち合わせずに学校へと向かった。

 未乃梨からは、昨晩にメッセージで謝罪があった。


 ――千鶴、昨日と今日、いやな気分にさせてごめんなさい。発表会の練習、頑張ってね


 そのメッセージが表示されたスマホの画面に目を落としながら、千鶴は昨日の未乃梨と凛々子の言い争いを思い出さずにはいられなかった。

(私がどっちかにちゃんと返事をできていたら……昨日のことは、私のせいだ)

 駅のホームでも、電車の中でも、学校の校門を通ってからも、千鶴の頭の中を未乃梨と凛々子の顔が浮かんでは消えていく。

(中学の頃から一緒で、あの頃からフルートが上手くて、笑った顔も怒った顔も可愛い未乃梨と、吹奏楽部でコントラバスを始めた私を気にかけてくれて、一から楽器のこととか音楽のことを教えてくれてる凛々子さんと)

 昇降口で上履きに履き替える千鶴の脳裏に、明るめの色のハーフアップの髪を軽やかに靡かせてはしゃぐ未乃梨と、緩くウェーブのかかった長い黒髪を静かに揺らして微笑む凛々子の顔が浮かぶ。

(……やっぱり、二人とも私の大事な人で、どっちかを選ぶなんてこと、できそうにないよ……)

 再び重苦しさが増した気持ちを抱えながら、千鶴は音楽室からコントラバスを運び出した。音楽室はコンクールに出るメンバーが合奏練習の準備を始めていて、千鶴はその邪魔にならないようにケースに収まったコントラバスを持ち上げると、そそくさと音楽室を立ち去った。

(未乃梨、今日も来てるよね。コンクールはソロとかあったはずだし)

 音楽室の中を見回すこともせず、千鶴はいつもの空き教室へと向かう。誰もいない空き教室の床にコントラバスを寝かせて、適当な机にスクールバッグを置くと、千鶴はそれだけでぐったりと疲れてしまった。

(今日、練習って気分にならないかも……せめて)

 千鶴は両足を肩幅に開くと、両手を組んでから両腕を頭上に上げてから、左右にゆっくりと少しだけ倒して身体をほぐし始めた。ゆっくりとストレッチをしながら、千鶴の口からどこかで聞き覚えた英語ではない外国語のカウントが思わず出てしまう。

(アインス)(ツヴァイ)(ドライ)(フィーア)……あれ?」

 慌ててストレッチを切り上げると、千鶴はコントラバスをケースから出して調弦を始める。チューナーの差す針は、今日はどの弦もあっさりと真ん中を指した。

 重い気持ちの割に、今日の千鶴の個人練習は最初からうまく滑り出している。課題で出されたイ短調の音階も、随分とスムーズに右手の弓の運びや左手で押さえる弦のポジションが進んでしまう。

 イ短調の音階を何度か上り降りすると、千鶴は昨日練習をしたチャイコフスキーの「ワルツ」の楽譜を出して、頭からさらい始めた。

 一見して単調な三拍子を組み立てていくうちに、コントラバスだけ弾いていると無機質に感じてしまいかねないそのリズムが、踊りだすような生き生きとした彩りを帯び始める。千鶴はそれが誰からもたらされたものか、考えることすら忘れるほどにチャイコフスキーの「ワルツ」の楽譜の中に入っていった。


 いつもより家を出るのが遅れてしまった未乃梨は、合奏練習の準備が半分ほど進んだあたりで音楽室に顔を出した。

「おはようございます」

「おはよう。あれ? 小阪(こさか)さん、今日は江崎(えざき)さんと一緒じゃないんだね?」

 同じパートの二年生の仲谷(なかたに)に指摘されて、未乃梨は一瞬だけ表情を固まらせた。

「……あの、今日は私が遅れちゃって」

「珍しいね? いつも一緒でラブラブなのにさ」

「ラブラブって、そんな――」

「木管の二年の間で噂になってるよ? 小阪さんと江崎さん、付き合えばいいのにって。小阪さんが女の子同士でもアリなら、だけど」

「そんな、先輩たちからそう思われてるなんて」

 譜面台を用意しながら、未乃梨は仲谷に向けた笑顔をこわばらせた。

(本当に、私が千鶴と付き合ってたら……か)


(続く)

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