♯223
凛々子に自分の千鶴への想いをぶつける未乃梨と、それを受け止めてなお冷静に振る舞う凛々子。二人の間で千鶴の苦しさは増していって……?
どこまでも堂々と受け答える凛々子と、その凛々子の言葉を聞いて苦しそうにリボンタイを外した襟元を押さえる千鶴を前に、未乃梨は怯んで足の力が抜けそうな自分を叱咤するように声を上げた。
「私だって……! 中学の頃からずっと、千鶴のことが好きで! 高校でも千鶴と一緒にいたいから吹奏楽部に誘ったのに! 私の方が、ずっと前から千鶴と一緒にいたのに!」
震えて乱れそうな声を必死で張り上げる未乃梨に、凛々子は背筋を真っ直ぐに保って立ったまま、どこまでも穏やかに声を掛けた。
「そうね。では、未乃梨さんの気持ちは、私が千鶴さんの側にいるだけで揺らいでしまうものではないはずよね?」
凛々子の言葉に、未乃梨は声を失った。
「……っ!」
助けを求めるように、未乃梨は千鶴の顔を見上げた。
千鶴はリボンタイを着けていない襟元を押さえたまま、未乃梨を正面から見ている。その両肩は呼吸に合わせて小さく揺れて、いつもの穏やかで優しげな瞳は微かに潤んでいた。
千鶴は、苦しそうな表情のまま、何とか選んだ言葉を未乃梨に告げる。
「ごめん。私、まだ、未乃梨にも、凛々子さんにも、……返事をするのは無理みたい」
「そんな……っ!」
未乃梨の目尻に、熱を帯びた滴が溜まっていく。それが溢れてこぼれる寸前に、凛々子のどこまでも落ち着き払った声が、未乃梨に顔を上げさせた。
「これで、私も未乃梨さんも対等ということになるわね」
「……何が、言いたいんですか!?」
余裕を見せつけてでもいるような凛々子の冷静さに、未乃梨はこぼれかけた目尻の滴を強引に手のひらで拭った。
「ずっと千鶴と一緒だった私にいつでも追い付けるって、言いたいんですか!?」
「そう、かもね。私も、千鶴さんからお返事をもらってないんですもの」
事も無げに言い返すと、凛々子は目の周りが苛立ちと怒りでうす赤く染まる未乃梨と、どこか不安そうな千鶴に順番に視線を向けた。
「未乃梨さんがそこまで言うなら、千鶴さんを自分に振り向かせてはどうかしら。もっとも、大きな声をあげてばかりの今のあなたに、千鶴さんが振り向いてくれるかどうかは知らないけれど」
凛々子は、ワインレッドのヴァイオリンケースを担ぎ直すと、不安が表情から抜けきらない千鶴にそっと近寄る。
「千鶴さん、ごめんなさいね。未乃梨さんに、大きな声を出させてしまったわ」
「いえ、そんな――」
「発表会の練習、見てほしいところあったらまたメッセージ送ってね。それと」
凛々子は、もう一度未乃梨の顔を見た。
「未乃梨さん、あなた、今度の発表会で千鶴さんの伴奏をするわよね? 私を出し抜くチャンスではなくて?」
その言葉に、未乃梨の顔に一斉に血が上っていく。
「……別に、凛々子さんに言われなくったって――」
その未乃梨の頭に上った血を、千鶴の声が引かせた。
「……あの、二人とも、もうやめて。未乃梨も、凛々子さんにこれ以上突っかからないで。凛々子さんも、未乃梨を追い詰めないであげて下さい」
千鶴の沈んだ声に、未乃梨と凛々子は同時に口をつぐんだ。
神妙な表情の二人に、千鶴は続けた。
「未乃梨にも、凛々子さんにも、返事ができないでいる私が言えたことじゃないけど、……二人が言い争ってるの、ちょっと見てられないよ」
苦しげな表情のまま、千鶴は俯いて目を伏せる。千鶴の両方の頬にひと筋ずつ、涙がきらめいてこぼれていく。
顔を手で覆う千鶴に、今度は未乃梨が近付いた。
「千鶴、……ごめん」
「ううん。未乃梨も、凛々子さんも、悪くないから……私、もう帰るね」
千鶴は未乃梨も凛々子も初めて聞く弱々しい声で、顔を覆ったまま、おぼつかない足取りで空き教室を出ていった。
やや沈痛な面持ちで、凛々子は小さく嘆息する。
「私も帰るわ。……未乃梨さん、私は千鶴さんを諦めるつもりはないから」
「……受けて立ちます」
空き教室から立ち去っていく凛々子に後ろ姿を見送ってから、未乃梨は同じ帰り道の千鶴を追いかけようとした。
(……千鶴、辛そうだった。今、私が追いかけたら、私に返事がまだできないのを気にして、余計に辛くさせちゃうかも)
未乃梨は足の運びを止めたまま、千鶴も凛々子も姿が見えなくなった廊下の、真夏の蒸すような空気の中でただただ立ち尽くすことしかできなかった。
千鶴は重い足取りで、紫ヶ丘高校の最寄り駅から電車に乗り込んだ。太陽が一番高い時間を少し過ぎた、これから暑くなる時間の電車の外の陽射しが、残酷なまでに眩しい。
(……私、どうしたらいいんだろう。大事な人二人に告白されて、その返事を待ってもらってて。誰に返事をするかも、まだ決められなくて)
じっとりとした汗が千鶴のうなじや額に浮かぶ。運動の汗とは違う、決して心地良いとはいえないその汗をハンカチで拭うと、千鶴は電車の外を流れる真昼の景色を見ては、うなだれることしかできなかった。
(……ちょっと、未乃梨さんに言い過ぎたかしら)
凛々子は、バスの席でヴァイオリンケースを抱えながら千鶴や未乃梨とのやり取りを思い返していた。
(でも、これはいつか二人に言わなければいけなかったこと。でも)
未乃梨が千鶴に対して抱いている強い好意は、凛々子にとってどこか眩しいものではあった。
(中学から千鶴さんと一緒だった未乃梨さんのことを、私はどこかで羨ましく思っているのかもしれないわ。未乃梨さんにも私にも返事を保留してるぐらい優しい千鶴さんとずっと一緒にいたのだもの)
バスが凛々子の自宅の最寄りの二つ前の停留所に止まった。凛々子はヴァイオリンケースを担ぎ直すと、席を立つ。家までは日陰づたいに歩けば、真夏の屋外でも少しぐらいなら歩けそうだ。
バスを降りる時に、凛々子は何度か学校からの帰りに階段で千鶴の大きな手に自分の手を預けたことを思い出して、立ち止まりかけた。後ろに続く他の乗客の足が止まる前に、凛々子はバスを降りて道に差す日陰に入る。
(千鶴さんと、未乃梨さんと私……ちょっと、こんがらがってきたかしら。なんだか、昔ピアノで習った不協和音みたい)
幼い頃、凛々子はヴァイオリンと同時に習っていたピアノのレッスンで教わったことを思い返す。
(「不協和音は綺麗だけど散らかった音でもあるから、七度は六度に、二度は一度にって具合にお片付けをする」……って教わったわね。千鶴さんと未乃梨さんと私、この不協和音は、どう解決するのかしら)
真夏にしては意外に心地良い風が通っていく日陰を伝いながら、凛々子は家路についた。
(続く)




