♯222
音楽室の外の廊下で待つ千鶴と凛々子に、話したいことがある未乃梨。
凛々子の想いは、未乃梨とはどこか違うようで……?
音楽室から出てきた千鶴に、廊下でスマホを見ながら待っていた凛々子が顔を上げた。
「浮かない顔してるわね。何かあった?」
「……実は、未乃梨が、この後凛々子さんと話したい、って」
「未乃梨さんが?」
凛々子は右側の眉だけを微かに動かした。
「……はい」
どこか気まずそうな表情でうつむく千鶴に、凛々子はさして動じた様子もなく、千鶴の側に寄り添うように立った。凛々子より顔ひとつは背の高いはずの千鶴が、縮こまるようにやや身を屈めているのが、凛々子には少しばかり気にかかる。
先程コントラバスを弾いていたときまでは並みの男の子より高い位置にあったはずの、今に限っては自分とさほど変わらない高さにある千鶴の横顔が、凛々子にとっては不思議でもある一方で、その気まずそうな表情には何とはなしの見当も付いていた。
(千鶴さんったら、未乃梨さんと何かあったのかしら。千鶴さんって時々こういう弱り方をするけれど)
凛々子はずっと俯き気味の千鶴に時々視線をやりながら、未乃梨が来るのを待った。
程なくして、音楽室からフルートのケースとスクールバッグを肩に提げた、未乃梨が現れた。連日の暑い音楽室での合奏練習で、襟元のリボンタイも外して制服のブラウスの裾もスカートの外に出しているその姿は、奇しくも千鶴や凛々子と同じだった。
「千鶴、お待たせ。凛々子さんも」
自分や千鶴と同じように半袖のブラウスを着崩す凛々子に、未乃梨はどこか棘のある感情を向けそうになる。
両方の眉尻が上がりそうになる未乃梨に、凛々子はあくまで穏やかに話しかけた。
「未乃梨さん、お話ししたいことがあるのでしょう?」
「……そう、ですけど」
虚を突かれたように、未乃梨は尻すぼみの返事をした。
「廊下では落ち着けないでしょうし、場所を変えましょう? ほら、千鶴さんも」
穏やかに、しかし有無を言わさない響きの声で凛々子は機先を制するように未乃梨と千鶴に告げた。先立って歩き出す凛々子に、千鶴と未乃梨はその後ろをどこか重い足取りでついていく。
凛々子は先程まで千鶴の練習に付き合っていた空き教室にたどり着くと、千鶴と未乃梨を招き入れた。
「ここなら、今の時間は多分誰も来ないわ。未乃梨さん、お話ししたいことって、何かしら?」
落ち着いた様子を崩さない凛々子に、千鶴の気まずさと未乃梨の緊張は高まっていく。
未乃梨は、意を決して千鶴に向き直った。
「千鶴、昨日の帰り、一方的に突っかかっちゃって、ごめんなさい。……ずっと、千鶴が私から離れていっちゃいそうで、不安だったの」
絞り出すような未乃梨の言葉に、千鶴はやっと顔を上げた。
「ううん。……謝らなきゃいけないのは、まだ返事が出来ない私の方だから」
「返事……なるほど、そういうことね」
千鶴に対して凛々子が打つどこまでも落ち着き払った相槌に、未乃梨はびくりと背筋を震わせた。その未乃梨を、千鶴がどこか気まずさの拭えない、何か悪いことをして謝ろうとしているような顔で見ている。
未乃梨はその千鶴に、怯みかけた自分に言い聞かせるように、掠れそうになる声で告げた。
「千鶴、私、凛々子さんに言うね」
「……未乃梨、何を?」
千鶴が不安そうに見守る前で、未乃梨は声を何とか奮い立たせた。
「凛々子さん。……私、千鶴が好きです。私、千鶴ともっと一緒にいたいです」
未乃梨への凛々子の返事は、尚も落ち着き払ったままだった。
「そう。私もよ」
「それじゃ、まさか、千鶴と凛々子さんって――」
「千鶴さんが私をどう思っているか、そのことについてのお返事を待っているのもあなたと同じよ。ただ」
凛々子はそこで言葉を切ると、一度千鶴の顔を見上げてから未乃梨の顔を見据える。
「私は一人の弦楽器奏者として、音楽をやる上でのパートナーとして千鶴さんの側にいたいし、ひとりの人間として、女の子としても、千鶴さんと同じ場所に立っていたいの」
落ち着いた様子で、凛々子は未乃梨にきっぱりと言い切った。
「そんな。でも、凛々子さんが千鶴のことをどう思っていても――」
「そうね。最後に誰に自分の側にいてほしいか、誰を好きになるかは千鶴さんが決めることよ。そして、それは私や未乃梨さん以外の誰かかもしれないわ」
縋るような未乃梨の声が、凛々子の穏やかではっきりとした言葉に押し流されていく。
凛々子は、今度は千鶴の顔を見た。
「そして、千鶴さんにも迷って考える自由が、一緒にいたい誰かを自分の意志で選ぶ自由があるわ。私と未乃梨さんも、無理強いをすることはあってはならないのよ」
凛々子の言葉の穏やかさに、千鶴は余計に揺らいでいく。
(未乃梨とは、同じ中学からの友達で、高校でも同じクラスで一緒に吹奏楽部に入って……凛々子さんは、私の楽器の先生で、オーケストラとかの部活の外の音楽のことを沢山教えてくれて)
ふと、千鶴の脳裏に、凛々子の言葉がいくつも立て続けに閃くように浮かぶ。
――でも、そうやって色んな人に好かれることって、千鶴さんの素敵なところだと思うわ。あなたは誰に対しても、平等に優しいのだもの
――未乃梨さんも、千鶴さんのそういうところを好きになったのではないかしら?
――千鶴さんにも迷って考える自由が、一緒にいたい誰かを自分の意志で選ぶ自由があるわ。私と未乃梨さんも、無理強いをすることはあってはならないのよ
(凛々子さん、返事を返せないでいる私を好きでいてくれて、私だけじゃなく未乃梨のことまでもどこかで考えてくれてて……?)
千鶴の中で、天秤が揺らいで傾きかけそうな奇妙な感覚がして、千鶴の呼吸を息苦しく押し留めようとしていた。
(続く)




