♯221
チャイコフスキーの「ワルツ」を練習した後で、もう一度踊ってみないかと誘う凛々子。
音楽室から流れてくる、未乃梨も含めた吹奏楽部員が練習している「ドリー組曲」の「キティ・ワルツ」に合わせて再び凛々子と踊る千鶴はどこか複雑で……。
戸惑いの消えない千鶴は凛々子に手を取られるままに、音楽室から聴こえてくる「キティ・ワルツ」に合わせて踊った。
踊った、といっても、千鶴は自分に腰と左手を預けてきた凛々子を支えるのに精一杯で、凛々子の足を踏まないようにステップを真似て必死でついていく他にやりようがなかった。
それでも、千鶴は凛々子の動きが、以前踊った時より少しは見えてくるような気がした。
「キティ・ワルツ」に合わせてステップを踏む凛々子の所作が、ある種の緩やかな曲線を淀みなく動いているように見えて、千鶴は何とかして凛々子の動きを追った。
それでも、空き教室の外から聴こえる、「キティ・ワルツ」を練習しているコンクールに出る吹奏楽部員の中に未乃梨がいることが、余裕のない千鶴を更に追い立てている。
(……私、何をやってるんだろう。発表会で弾くチャイコフスキーも、今音楽室で未乃梨とかのコンクールメンバーが練習してるこの曲も、同じワルツなんだろうけど――)
戸惑いと気まずさで、自分が振り回されているようにすら感じる千鶴は、それでも目の前の凛々子に少しずつ惹き込まれていく。
凛々子のヴァイオリンを弾く時と変わらないしなやかで流れるように自然な身のこなしも、千鶴を見据えたまま離れない優しくて穏やかな視線も、緩くウェーブのかかった長い黒髪の微かな甘い香りも、どこか落ち着かない千鶴をゆっくりと惹き込んでいく。
そのことに千鶴が気付く頃には、音楽室の外から聴こえる「キティ・ワルツ」は終止符にたどり着いていた。ステップをゆっくりと止めた凛々子が、そっと千鶴の手から離れて、恭しく制服のスカートをまるでドレスでも着ているかのように軽く摘んでお辞儀をした。
「え、ええっと……」
千鶴は慌てて、自分も凛々子のようにお辞儀をしようとして、制服のスカートの端を摘み損ねてしまう。
凛々子は「もう。初々しいんだから」と毒気のない笑みを浮かべながら、恥ずかしそうな千鶴の顔を見上げる。
「カーテシーまで真似しようとしなくてもいいのよ? さっきのダンス、あなたは男性役なのだもの」
「そ、そうなんですか?」
「ええ、背筋を伸ばしてお辞儀すればいいの。千鶴さんなら、それだけで格好いいわよ?」
凛々子のその言葉と微笑みは、千鶴にはどこか面映ゆい。
「……もう、からかわないで下さい。あっ」
千鶴は凛々子から視線を離そうとして、凛々子のボタンをすっかり外している、端だけを結んだ制服の半袖のブラウスがはだけるのが見えた。結んだ端が解けたブラウスが、襟元まで崩れて背中に落ちかけて、凛々子の薄い紫色のキャミソールに包まれた胸元のふくらみがすっかり露わになってしまう。
「あら、いけないわ」
凛々子は千鶴に見られていることも気にかけず、ブラウスを直してボタンを留めていく。それでもブラウスの裾はスカートに入れず、上のボタン二つは開けたままでリボンタイを着けようともしない。
「これで、お揃いね。千鶴さんと同級生になったみたい」
結局、制服を自分と同じように着崩した凛々子を見て、千鶴はほっと安心をした。その安心の理由がどこから来るのか分からないまま、千鶴はコントラバスをケースに片付け始めた。
正午近くになって暑さを増していく音楽室で、未乃梨はフルートを片付け終えてからも、音楽室で何か用がある素振りをしながら、落ち着かない気持ちを抱えて自分のパート譜やスマホを見ていた。
音楽室の片付けはとっくに終わって、そろそろ帰ろうとする部員もいる。コンクールに出ない初心者の一年生も、そろそろ音楽室に楽器を片付けに何人か戻って来ていた。
未乃梨は、音楽室の戸口に巨大な楽器ケースを抱えた長身の同級生が現れたのを見つけて、安堵と緊張が半分ずつ混ざった気持ちをどうにか押さえつけながら駆け寄っていった。
「千鶴、お疲れ様。……昨日はごめんなさい、酷いこと言っちゃって」
未乃梨は、ケースに収まったコントラバスを抱えた千鶴に頭を下げた。その千鶴の声が、未乃梨を安心させるような響きを持って降ってくる。
「ううん。私も、未乃梨の気持ちを知ってて返事が出来ないままだし、その、あんなことを言われても仕方がないかなって」
「ありがとう。ねえ、千鶴」
未乃梨は、やっと顔を上げた。その瞳に、不安を振り切ろうとするような強い光が千鶴に見えたような気がした。
「今日、凛々子さんもいたのよね?」
「あ、……うん。コントラバスの練習、見てもらってた」
「あのさ。凛々子さん、まだ帰ってなかったら、……会えないかな」
「今、音楽室の外で待ってるけど……どうして?」
「私、凛々子さんに話したいことがあるの。千鶴にも、一緒にいてほしい」
「……うん。じゃ、外の廊下で待ってるね」
「お願い。すぐ行くから」
未乃梨はコントラバスを片付けて音楽室を出る千鶴を見送ると、顧問の子安すら帰って人がまばらになった音楽室で、ゆっくりと深呼吸をした。
(続く)




