♯220
吹奏楽部が音楽室で練習をする一方で、発表会で演奏するチャイコフスキーの「ワルツ」を合わせる千鶴と凛々子。
二人の演奏は、少しずつ呼吸を揃えていって……。
「今日は、ここまでにしましょうか」
凛々子が顎に挟んだヴァイオリンを下ろすと、コントラバスを身体に立て掛けたままの千鶴に微笑んだ。
「今日は最初の方だけをやったけど、チャイコフスキーのこのワルツ、全曲弾けたらもっと楽しいわよ」
千鶴は汗をハンカチで拭うと、弓を緩めながら凛々子に頷く。
「……この曲、本当に、踊ってるみたいに弾くんですね」
「そう。私、時々チェロとかコントラバスの奏者が羨ましくなるの。だって、ダンスの曲のリズムを独り占めして弾けるんですもの」
ボタンを開けた制服のブラウスの襟元をはたいて風を入れる凛々子から慌てて目を逸らしつつ、千鶴は先程までの練習を思い返した。
チャイコフスキーの「セレナード」の「ワルツ」の練習を始める前に、凛々子は最初に軽く説明をした。
「ワルツがどういう種類の曲かは、この前に私と踊ってみて分かったわね? では、今日は最初の方だけ、私と踊ってるつもりで合わせてみましょうか」
千鶴は最初、「セレナード」の「ワルツ」で、ひたすら凛々子のヴァイオリンに付いていこうとした。付いていこうとしてすぐ、凛々子のヴァイオリンが止まる。
「千鶴さん、らしくないわよ? あなた、『あさがお園』で、そうやって弾いてたかしら?」
「それは、……その」
千鶴は凛々子に自分のコントラバスを咎められたように感じて、言葉を詰まらせる。凛々子はその千鶴の様子を気にする風でもなく続けた。
「この曲であなたが弾くコントラバスのパート、よく見てご覧なさいな。今日合わせるところ、そんな難しいことは楽譜に書いてないでしょう?」
凛々子に言われて、千鶴ははっとした。
「あ、……殆ど小節の頭とか伸ばしの音で、四分音符より細かい音、書いてないです」
「ということは、よ。この曲のテンポとかリズム感を決めるのは主旋律を弾いてる私のヴァイオリンじゃなくて、千鶴さんのコントラバスよね?」
「じゃあ、……私がどんどん引っ張ってもいいんですか?」
「ええ。千鶴さんが弾いてみたいテンポでいいのよ」
「……それじゃ、一、二、三、がこんな感じで」
千鶴は慣れない指揮棒を振るように、空中に三角形を描いてみせた。先程の凛々子が弾こうとしたテンポより、それはほんの僅かだけ遅い。
「分かったわ。では、一、二、三」
凛々子が千鶴の示すテンポに合わせてカウントして、先程よりはやや緩やかなテンポで再びチャイコフスキーの「ワルツ」が流れ始めた。
千鶴は自分で作ったテンポで「ワルツ」の頭打ちの伴奏を弾きながら、ヴァイオリンを弾く凛々子を改めて見た。
僅かに緩んだ三拍子に乗ってヴァイオリンを弾く凛々子が、少しばかり大きな弓さばきでチャイコフスキーの「ワルツ」の旋律を弾いている。千鶴のコントラバスが示す三拍子のサイクルに合わせて、凛々子の上半身が自然に揺らいだ。
その凛々子が、楽譜すら見ずにヴァイオリンを弾きながら千鶴を見ていた。千鶴も、コントラバスを弾きながら凛々子を見た。ヴァイオリンの主旋律とコントラバスの伴奏が、ダンスのパートナー同士のように足並みを揃えていく。
途中でフレーズのひとくだり分、千鶴のコントラバスが休符になる箇所に差し掛かっても、二人の視線は重なったままだった。思わせぶりなシンコペーションを含む旋律を弾く凛々子の弓を見逃すまいと、千鶴は凛々子を凝視した。
千鶴のコントラバスが弓で弾くアルコから指で直接弦をはじくピッツィカートに変わるところで、二人のテンポが揺らいだ。千鶴の弾く少しばかり不器用さの抜けないピッツィカートが、ダンスのパートナーを支えるように一度凛々子のヴァイオリンを留めてから、また再びゆっくりと動き始める。
(まあ。千鶴さんからそんなふうにリードするなんて)
違和感を覚えない程度にテンポを揺らしてきた千鶴に、凛々子はヴァイオリンを弾きながら口角を上げた。千鶴の表情にも、恥じらうようなはにかみが浮かぶ。
二人の視線は重なったまま、「ワルツ」の結びに向かってステップを踏んでいく。
チャイコフスキーの「ワルツ」が終止符を迎えると、凛々子はヴァイオリンを置いてからコントラバスを身体に立て掛けたままの千鶴の側にそっと近寄った。
「コントラバスを弾くときは、あんな風に踊るのね?」
「ちょっと遅いテンポの方が、凛々子さんのヴァイオリンが綺麗に聴こえるかなって思って。あと、ずっと同じテンポで固めないほうが良いかな、って」
「そう。千鶴さんのテンポ、身体を預けやすそうだったわよ」
はにかみの残る千鶴がコントラバスを空き教室の床に寝かせると、ゆっくりと背筋を伸ばす。伸びをし終えた千鶴の手に、不意に凛々子の手が触れた。
「もう少し、踊ってみない?」
上目遣いに自分を見上げてくる凛々子が、千鶴の右腕に自分の腰を預けてくる。
「……え!?」
戸惑う千鶴の左手に、凛々子の右手が預けられて、二人の身体が向かい合ったままそっと寄り添う。
音楽室の方から、吹奏楽部が練習している「ドリー組曲」の「キティ・ワルツ」が始まった。はにかみと戸惑いが消えない千鶴の顔を、凛々子が見上げる。
「さ、始めましょう。一、二、三」
囁くようにカウントを取る凛々子の顔を、千鶴は頬が熱を帯びていくのを感じながら、それでも目を離すことが出来なかった。
(続く)




