♯22
初めてのことばかりの吹奏楽部で未乃梨と分奏に参加する千鶴と、オーケストラの本番に備える凛々子。
練習中の凛々子に舞い込んだ、とある依頼にはコントラバスも必要になりそうで……?
金曜日の木管分奏は、千鶴には少し面食らうことで始まった。
指揮者の席に座った子安が「それじゃ、始めましょうか」と挨拶をした時に、何人かが席から立って「宜しくお願いします」と大きな声で挨拶をした。それを、子安は「ああ、皆さん気を使わずに」と制した。
「元気な挨拶、ありがとうございます。でも、うちは運動部ではないし、僕はここでは皆さんと一緒に音楽を勉強する立場です。合奏前に特別な挨拶はいりませんよ」
子安の穏やかな言葉に、席を立った少年少女は呆気に取られたように着席した。席を立たなかった、遠くのフルートの席にいる未乃梨も戸惑っていた。
(文化部ってみんなこんな感じなのかなあ。それとも、子安先生がちょっと変わってるのかな)
千鶴は、当惑の色を浮かべた一部の部員も含めた、木管分奏に参加した面々を見回した。
席を立ったのは全員が青いネクタイの男子や同じ色の女子の千鶴と同じ一年生だった。赤いネクタイやリボンタイの二年生や緑色のそれの三年生は席を立たず、リラックスした様子で座っている。
千鶴のすぐ近くに座っているサックスパートの高森に至っては、膝の上にアルトサックスを置いて隣の一年生に「うち、よその吹部と違うからね」と笑いながら話していた。
子安はにこにこと上機嫌な表情のまま、「それでは皆さん、始めましょうか。では、頭から」と指揮棒を構えた。
木管とコントラバスだけの「スプリング・グリーン・マーチ」が始まった。
空いている教室で、凛々子は一人でヴァイオリンを練習していた。
いつもなら校舎のあちこちで練習している吹奏楽部員に紛れて、空き教室を探してヴァイオリンの練習をしたり、千鶴のコントラバスの練習を見たりするのが日課だったが、今日は周りいつもよりやや静かだった。
凛々子は千鶴から数日前に届いたスマホのメッセージを思い出していた。
(確か、今日は木管とコントラバスだけでセクション練習みたいなことをやるって言ってたかしら)
空き教室の外から聴こえて来るのはトランペットやホルンやトロンボーンといった金管楽器の音ばかりで、サックスも含めた木管楽器の音は近くには聴こえてこない。放課後の学校で一人でヴァイオリンを弾くのが久し振りで、それが少し淋しいように思えるのが、凛々子には少し可笑しかった。
(今頃、フルートの小阪さんも江崎さんと一緒かしらね)
そんなことを思いながら、凛々子はシューベルトの長いパート譜を通していった。
木管分奏が始まってから、千鶴は自分の耳と視線が色んな方向に引っ張られてしまうことに気付いた。
クラリネットからフルート。フルートからサックス。サックスからオーボエ。そんなふうに主旋律が楽器から楽器を受け渡されるたびに、千鶴はコントラバスを弾きながらその方向を向いてしまっていた。
フルートに主旋律が回ったときは、千鶴は当たり前のように未乃梨を見てコントラバスを弾いていた。未乃梨は驚いたような顔をして千鶴を見返して、慌てるように子安の指揮に視線を戻していた。
「スプリング・グリーン・マーチ」の前半を通し終えたところで、子安は千鶴の方に呼びかけた。
「さて、弦バスの江崎さん、合奏中に随分よそ見をしていたようですが」
「あ、……すみません」
千鶴は子安に頭を下げた。周りの席からくすくすと忍び笑いが起こって、千鶴は冷や汗をかいた。その冷や汗が急に引いた。
「いえ、それは、弦バスを弾く人の特権です。木管の皆さん、笑っちゃいけませんよ」
毒気のない子安の物言いに、周りの忍び笑いが一斉に消えた。フルートの席に座る未乃梨も、ほっとしたような顔をした。サックスの高森に至っては、千鶴に振り向いて親指を立てていた。
子安はにこやかに続けた。
「まず、みんなと合わせる時に周りを見る余裕があるのはとても大事なことだし、立って演奏してて管楽器より目線が高いコントラバスなら、むしろそれが出来なきゃいけません。江崎さん、練習中はもっとよそ見をしてみて下さい。他の皆さんも、ですよ」
上機嫌そうな表情で、子安は再び指揮棒を掲げると「では、もう一度。頭から」と告げた。
空き教室で練習中の凛々子のスマホに着信があった。
『もしもし。瑞香だけど。ちょっといい?』
「あら。どうしたの?」
『智花がね、ちょっと小さい本番を頼まれてさ。四人か五人で何か出来ないかって話なんだけど』
「曲によるわね。簡単なのならいつでも」
『でさ、最近凛々子が入れ込んでるっていうコントラバスの子、ちょっと連れてきてみない?』
凛々子は「ええ?」と言葉を詰まらせかけた。
「随分急ね。曲は?」
『カノンとG線上のアリアあたりであと一曲、かな。気楽な本番だし、初心者でもコントラバスがいたら助かるから、って智花が』
凛々子は溜息を付きつつ、ふっと笑顔が浮かんだ。
「あの人、突拍子もないんだから」
『凛々子、ちょっと喜んでるでしょ? 声でわかるわよ』
「はいはい。じゃ、詳細はまた知らせて」
『うん。連絡する。じゃ』
スマホの通話が途切れると、凛々子はシューベルトの「グレート」の練習に戻った。瑞香からの電話の前に弾いていた第三楽章の冒頭から、改めて弾き始める。
その、第一ヴァイオリンからコントラバスまで全ての弦楽器がユニゾンになる、沸き立つような活気に満ちた三拍子のフレーズを、凛々子は知らずに愉快な気分で弾き出した。
(続く)




